雑感
河野政通と伊予河野氏
運営委員 寺川 仁
 
 近年、各地における地域史研究が、新史料の発見や遺構の発掘成果により、その実証性の度合いを高めながら進展している。
 と同時に、旧来の史料、特に二次史料として警戒されてきた家譜・軍記物のいわゆる編纂物の類も、その謎が次第に解き明かされてきており、それらの成果が私たちに一段と豊かで興味深い歴史像を提示してくれる。
 そしてまた、地域史は決して一定の地域内においてのみ完結するものではなく、広範な視野で眺めることにより、さらに新しい知見や事実に邂逅し、その歴史的広がりを実感することも可能なのであって、地域史の意義もより深まるのであろう。
 今回は、偶然発見した一人の人物についての話であり、研究報告というには程遠い。しかし、先述のようなテーマに沿うものと思われるので、敢えて記述しておきたい。

 中世伊予の大名河野氏の系譜に、河野政通という人物を見出すことはおそらくできない。諱から見て、通字の「通」を下にする例は、将軍家や烏帽子親から偏諱を受ける場合が考えられる。例えば、刑部大輔通久は四代将軍義持の偏諱を受けて初名を持通といい、その子刑部大輔教通も六代義教の偏諱を受けている。弾正少弼通直の嫡子晴通は十二代義晴の偏諱である。河野氏は、いわゆる守護クラスの武家領主として将軍からの偏諱を受けるのが通例となっていた。
 さて、この河野政通という人物について言及したのは山内譲氏である(「教通と通春―伊予河野氏と応仁の乱」上・下、『伊予史談』二八二・二八三号、のち『中世瀬戸内海地域史の研究』所収)。山内氏は、応仁文明期の複雑な河野氏の動向について研究史を明瞭に整理される中で、その史料『応仁記』(『群書類従』所収)や『細川勝元記』(『続群書類従』所収)に周防大内氏とともに上洛した河野氏について「河野四郎」や「河野四郎政通」とあり、その人物比定を足がかりにこの時期の河野宗家と庶流予州家の対立とその動向を検討されている。
 山内氏は、大内政弘と上洛した、河野氏の系図には見えない「河野政通」なる人物を教通・通春のどちらに比定できるか、複雑な研究情況と数少ない関係史料を慎重に検討した結果、予州家通春であろうと推測された。私も氏の所論によって私の中で混乱していたこの時期の情勢が明らかになり、安堵していたのである。
 ところが、この時期の蝦夷・北奥羽において「河野政通」の名を偶然発見して、私は一瞬目を疑った。それは、最近刊行されつつある県史シリーズの『青森県の歴史』(山川出版社、県史2)に目を通した時であった。
 そこには、中世の北奥羽における諸勢力の展開を述べた中で、「享徳三(一四五四)年八月、南部氏の傀儡だった安東(安藤)師季(政季)は、下北大畑より海路蝦夷ケ島松前に逃亡し、「安藤亡命政権」を再興したのである。政季を擁立して蝦夷ケ島渡海を成功させたのは、武田信広・相原政胤・河野政通ら、若狭・下総・伊予などから海路下北に集まっていた浪人衆と、もとからの下北蠣崎の土豪衆であり・・・」と記されていた。すなわち、応仁の乱を遡ること十三年ほど前に、伊予の「浪人衆」として「河野政通」という人物が下北安藤氏のもとにいたというのである。
 しかも、この政通は、渡海後居館を構えるが、その形が遠くから見て箱に似ていたからその地を「箱館」と称するようになったという伝承もある(この点に関して諸説ある。詳細は『角川日本地名大辞典』北海道函館市の項を参照)。実は、この話は既に司馬遼太郎氏の著作『菜の花の沖』にも引用されており、読まれた方は記憶にあるかも知れない。
  政通は、加賀守・右衛門を称し、その出自は「越知氏」であるという(『新羅之記録』)。その子季通は永正九年(一五一二)アイヌとの戦いで自刃し、父政通は季通の女を連れて松前へ至り、蠣崎季広にその子を嫁がせた。そして生まれたのが後の松前藩主慶広である。その庶子景広は季通の名跡を継ぎ、後に松前氏を称して家臣となっている。
 政通の活動時期を考えれば、先述の河野氏の偏諱授与の例からすると、八代義政の偏諱を得た可能性があるが、前述県史シリーズ『北海道の歴史』(県史1)は安藤政季の偏諱と推定している。どちらも可能性として残しておく必要があるが、いずれにしろ、河野だけでなく、武田や相原、さらには村上といった伊予・若狭・房総・信濃に出自を持つとする人物が各地から安藤氏の許に集まっており、この河野政通が伊予に関係があることはほぼ間違いないと考える。しかし非常に興味深い。
 偶然の一致なのか、それとも同一人物なのか、その答えを出すには今後の史料検討を待たなければならないが、『細川勝元記』の「河野四郎政通」と、蝦夷まで足を踏み入れた河野政通、この人物の実在を立証することは、この時期の河野氏の動向の解明にまた一歩近づくのみならず、当時の交易や流通を知る上でも重要な手がかりになりはしないだろうか。とくに河野氏は水運との深い結びつきがあったことは周知の通りであり、そのネットワークがあるいは政通の道しるべになっていたのかもしれない。

 (いみな)・・・人名の呼称の一種で、実名もしくは本名のこと。平安期以来中国からの移入により漢字二文字の形が定着したが、例外的に一文字の諱を代々の形にする家もある(嵯峨源氏渡辺氏や松浦氏など)。
 偏諱(へんき)・・諱の片一方の文字。武家社会において、主君が家臣に対して自らの諱から一文字を恩恵として与える慣習があった。それを偏諱授与、一字拝領などという。         
通字(つうじ)・・その人の所属する系統を表すために用いられる字及びその制度。系字ともいう。
  例として河野氏では「通」、二神氏では「種」、このように諱の上部に通字を冠するのを通例とする家や、大内氏の「弘」、伊達氏の「宗」のように諱の下部に置くことを通例とする家がある。

 


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