湯築城跡保存運動を振り返って

土居 敬之介

湯築城跡を守る運動


 筆者がかって所属した「道後湯築城跡を守る県民の会」は、平成元年から長きにわたって湯築城跡の保存と活用の市民運動を展開した。その運動を振り返り、問題の本質は何であったのかを分析し、多くの人たちの努力と苦闘の歴史を概略であるが記憶に残したい。


1.湯築城跡を守る運動の始まり


 湯築城跡を守る運動は、愛媛県が湯築城跡に日本庭園を造ろうとし、その公示前の発掘調査で大規模な中世の遺構が確認されたことに始まる。この貴重な遺跡を壊してはならぬと、先ず愛媛大学の研究者たちが「道後湯築城跡を考える会」を結成(1989.09.08)し、その呼びかけに応じて集まった一般市民らと共に保存運動の必要性と、そのための市民レベルの団体結成を確認した。かくして研究者と一般市民が一体となった湯築城跡保存と活用を目指す市民運動が発足した。
 その後直ちに、緊急アッピールを県当局に提出したが、知事・教育長は多忙を理由に面会を避け、代わって応対した壷内生涯教育課長は「文書による保存も立派な遺跡保存」と述べ、遺跡を保存する意志は見せなかった。
 この事態に守る会は街頭署名を実施し、県議会に請願署名(19,627人)を提出した(1989.12.05)。この請願は文教委員会と建設委員会で審議され、継続審議となった(1989.12.13)。

 このように僅か4ヶ月の間に矢継ぎ早に行動しているが、このエネルギは緊急性を要するという危機意識から出たものであり、今記録を読み返すと、当時の危機感と熱気がひしひしと伝わって来る。。

 この間の出来事は年表をご覧頂きたい。


 1-x1 県議会に請願書を提出する狙い

  ここで一つ注釈が必要かと思います。「守る会」が県議会に請願書の提出を繰り返しましたが、その狙いは、県議会規則で受理した請願は必ず審議しなければならないと定められているからです。つまり、行政に要望書や決議文を送っても、聞き置かれるだけで何の回答も得られないことが多いのに対し、請願は採択されるか否決されるかは判りませんが、必ず審議されれるので、何らかの結果が返って来るからです。


 1-1 年表


1984.03.  日本庭園計画湯築城跡に日本庭園を主とする公園を整備すべしとの答申。
1988.03.  県の同上実施計画まとまる。
1988.04.〜 埋蔵文化財調査センター(以下埋文センターと略記する)、発掘調査計画
1989.04   埋文センター調査開始
1989.08   大規模な中世遺構を確認
1989.08.30 各紙遺構発掘大きく報道
1989.09.08 川岡勉ら愛媛大の研究者「道後湯築城を考える会」結成。
1989.09.23 「考える会」主催=‘道後湯築城を考える市民の集い’開催,約170人参加。
        テレビ報道、翌日新聞各紙報道。
        保存運動の必要性が確認され、そのための市民レベルの団体結成を確認。
       会終了後有志約30人がロビーに集まり、会結成の準備委員(運営委員)となる。
1989.09.30 「道後湯築城跡を守る県民の会」結成。
1989.10.09 「守る会」世話人、道後湯築城跡の保存を求める緊急アピールを県当局に提出。
1989.10.09 知事・教育長は“多忙”として会わず。壷内生涯教育課長が応対、「文書による保存も立派な遺跡保存」と述べる。
       テレビ報道、翌日新聞各紙報道。【内容】遺構を保存しこれを活かした史跡公園を造ること。
1989.10.13 県埋蔵文化財調査センター、現地説明会開催。約500人参加、配布資科不足で係員大慌て。遺跡保存を望む声つよし。
1989.10.24〜11.04 愛媛新聞、「蘇れ、湯築城」(毎号30行・7段程度)と題する特集記事を11回に渡り掲載。
1989.10.29〜11.26 街頭署名第一回〜第五回
1989.12.05 「守る会」、県議会に請願署名(19,627人)を提出。
       テレビ各社報道.翌日新聞各紙報道。
1989.12.13 県議会、文教委員会。理事者側は専門家による調査実施を答弁。同建設委員会。理事者側は明確な答弁を避ける。
       「守る会」提出の請願署名は継続審議となる。


 1-x2 裏話


 道後湯築城跡を守る県民の会結成を呼びかけたのは愛媛大学の先生方でした。この方達は殆どが他県の出身者です。その呼びかけに応じて立ち上がった市民の集まりが道後湯築城跡を守る県民の会(以後、守る会と略記)です。
 守る会の結成が決まり、代表を決める段になって、地元出身者が誰も名乗りを上げないので、愛媛大の先生方が、地元の人間は何もしないのかと怒ってしまい、それを聞いてこれはいかんと島津先生が代表を買って出ると言う一幕があったそうです。
 守る会は会長は置かず、複数代表制を採っています。会結成時は、運動を立ち上げた川岡先生と、上記の島津先生と二宮晃史氏の三人代表でスタートしました。このうち二宮さんは国史跡指定を見ずに亡くなられました。謹んでご冥福を祈ります。


2.県の対応と守る会の闘い


 年が明け、平成2年(1990)2月21日に県は、湯築城跡(道後公園)の日本庭園を中心とした整備事業を白紙撤回し、工事契約を破棄した。これは当時としては大英断である。この時点でもう一歩進めて「国史跡指定を申請する」と言明していれば、同城跡保存問題は終結していた筈である。
 県はその後湯築城跡を「史跡を活かした都市公園とする」方向を打ち出した(1991.06.14)。これに対し「守る会」は緊急臨時総会を開き、このような史跡指定を行おうとせず、湯築城跡の歴史的価値を認識しない計画では、文化財保護法に則った史跡公園とはほど遠いものであり、「史跡指定→全面調査→史跡公園」を求める旨決議し(1991.06.22)、長い闘いに突入することとなる。


 2-1 年表


1990.02.21 県は、湯築城跡(道後公園)の日本庭園を中心とした整備事業を白紙撤回。
1990.03.21 「守る会」設立総会(経過報告、運動方針、役員選出など審議。
1990.06.10 「守る会」機関誌「ゆづき」1号発行。
        「守る会」設立総会関係・森光晴「愛媛における中世城館跡遺構について」・川岡勉「河後森城発掘調査報告会に参加して」・歴史学研究会「愛媛県松山市場築城跡の保存に関するアピール」など掲載。
1990.10.29 「守る会」、県知事・県教育委員会宛に要望書を提出。 1.早急に史跡指定を行うこと。 2.道後公園整備計画調整協議会に道後地区以外の県民の代表を加えること。
1990.11.06 県議会文教委員会開催。「守る会」提出の請願書を審議、再び継続審議とする。
1991.03.08 県議会文教委員会、「守る会」の請願書を3度継続審議とする。
1991.03.24 「守る会」第2回総会・講演会(於愛媛共済会館)
1991.06.08〜11 文全協第22回大会(松山大会)於愛媛大学教育学部・文教会館
1991.06.14 旧動物園跡地整備の検討委員会開催。中間報告をまとめ、従来どおり「史跡を生かした都市公園」の方向を打ち出す。
1991.06.22 「守る会」緊急臨時総会
 【決議趣旨】先頃、伊賀知事は、旧道後動物園跡地に限定した発掘調査を進め、この部分については、遺跡を残した公園にすることを表明した。しかし、これは、私達が求める文化財保存法に則った史跡公園とは異なるものである。何よりも問題なのは、湯築城跡の歴史的価値を認識せず、その価値を保存することにならないということである。史跡指定も行おうとせず、調査体制を充実させることもないまま、闇雲に発掘調査を拡大することは、かえって危険と言わざるをえない。我々は、改めて「史跡指定→全面発掘調査→史跡公園(一部復元も含む)」の方向の整備を求める。


 2-2 史跡を活かした都市公園構想の問題点


 「守る会」は県が打ち出した「史跡を活かした都市公園」構想に承服できなかった理由について、少しばかり説明を加えます。
 県は「道後公園整備計画検討委員会」を前年に設置し、その第2回検討委員会で得た中間報告に基づき、「旧動物園区域は発掘調査を行い、その結果を踏まえ、文化財を生かした公園として整備すること。その他の区域は、文化財に影響のない手法により整備を検討すること。発掘調査は当面動物園跡地に限定し、その他の区域は、溝掘・坪掘等による調査を行う。」と言う方向を打ち出しました。
 これでお分かりと思いますが、日本庭園を造る予定だった旧動物園跡地は遺跡を残した公園にするものの、その他の区域は「文化財に影響のない手法により整備」と曖昧な表現で表面を糊塗し、将来何らかの施設を造る可能性を残しています。しかも、それら区域については「溝掘・坪掘等による調査を行う」とし、全面調査の文言はありません。
 つまり、既に遺跡が見付かってしまった区域は仕方無いが、その他の区域は調査もしない、何を造るか判らないよ、と言っているようなものです。まして国史跡の指定を申請する意思は全く認められません。
 このような内容では到底承服出来ず、改めて「史跡指定→全面発掘調査→史跡公園(一部復元も含む)」の方向の整備を求めて運動を強化することになりました。


3.膠着状態が続く中での守る会の啓蒙活動


 この後平成11年正月の知事選で新知事が誕生するまで、何の進展もない状態が続いたのであるが、その間、守る会は県議会に請願の提出を繰り返し、その一方で、毎年春・秋に講演会とシンポジウムの開催を続けた。
 前者は前に述べたように受理された請願は必ず審議されるからで、言い換えればアクションに対するリアクションがあるからである。後者は湯築城跡の重要性を訴えるとともに、文化財保護のあり方について理解を深めることを狙ったものである。ここで忘れてはならないのは地元紙がいずれも必ず報道して呉れたことで、PR効果も大きく、湯築城跡保存運動の強い支援となった。


 3-1 年表


1991.09.20 愛媛県埋文センター、湯築城発掘調査再開。
1992.03.21 第3回定期総会(於松山市民会館)
        記念講演 川岡勉「中世道後平野の城館と集落」
1992.11.28 シンポジウム「戦国織豊期の城と城下町−道後湯築城跡の価値をめぐって−」(於子規記念博物館)。約400人参加。
1993.04.04 第4回定期総会(伊予鉄福祉会館)記念講演内田九州男氏(愛媛大学教授)「史跡活用と町の魅力」総会の後懇親会。
1993.04.06 県知事・教育長宛の要望書提出。伊予鉄社長宛の陳情書(駅名変更の陳情「道後公園前」を「道後湯築城跡」に)提出。
1993.12.12 シンポジウム「道後湯築城跡の保存と活用−史跡公園と町づくりを中心に(於子規記念博物館)
1994.03.26 「守る会」第5回定期総会(於伊予鉄福祉会館)
       記念講演 「道後湯築城保存整備プランの基本的方向」山梨学院大学教授 十菱駿武(この講演要旨は「ゆづき」10号参照)
1995.10.01 「中四国中世城館サミット−道後湯築城跡のよりよき整備に向けて−」(於市民会館小ホール)
1996.04.20 総会(於えひめ共済会館)
    テーマ「湯築城跡の今後の課題を探る」研究報告(問題提起)西尾和美(運営委員)
        「地域の歴史と文化財保存−地域における文化財保存の意義を考える−」古谷直康(運営委員)
        「“守る会”運動の分析から見えて来るもの」島津豊幸(代表委員)
        「道後湯築城跡保存協会設立計画案」(討論)
    討論終了後、総会・懇親会


4 インターネット活用による新たな展開


 1996.09にそれまでに無かった新しい動きが芽生えた。二神重則会員が自分のHPを開設し、その一隅に「道後湯築城」のコーナーを設けたことである。
 二年後にそれを独立させ、「守る会」の公式ホームページを開設した(1998.6.10)。その目的は湯築城跡保存問題を全国に発信し、県内外から巾広い支援を得ることにあった。
 その第一歩としてHP開設直後の文化財保存全国協議会新潟大会(1998.6.14)において、守る会川岡代表(当時)が湯築城跡保存運動の報告を行うとともに、インターネットを通じて各地の史跡保存運動団体相互の連携を図ることを提案した。しかし、インターネットが漸く脚光を浴び始めたばかりで、史跡保存運動団体としては守る会のHPが最初であったため、この提案の実行には時間が掛かることが判り、直ぐには実現しなかった。
 これとは別に、Niftyの3つのフォーラムにHP開設の案内を出したところ、城郭フォーラム(FSIRO)から直ぐに支援する旨の意向表明があり、これを切っ掛けに双方の交流が始まった。そしてその秋のシンポジウム「道後湯築城と戦国期社会」にFSIROから4人の参加があり、更には湯築城ファンクラブがネット上で結成されるに至った。当時、一般の人にとってはインターネットを介したこのような出来事は想像を超えたことであったので、シンポジウムの内容とともに一連の展開が新聞紙上を飾ることとなった。

 この展開は大きな効果を生んだ。それは湯築城跡保存問題は愛媛県内に止まらず、全国から注目されていること、湯築城跡保存を支持する人が全国に居ること、などが誰の目にも明らかとなり、行政サイドは大きな圧力を感じたらしいことである。サッカーに譬えるなら、守る会はプレイヤー、湯築城ファンクラブなど全国の支援者はサポーターの関係である。サポータの力がどの程度か判らなくても、行政としては愛媛県内において守る会を封じ込めれば済むという状況で無くなったことに間違いはない。

 湯築城跡を守る運動が始まってから一貫して続けて来た活動は、いずれも新聞報道の対照となり、ビジネス用語で言うなら露出度を高める効果を生んだ。資金も無く権力もなく、言論が唯一の武器である市民運動を進める上で、今振り返ってみると、その当時に採り得る最上の情報戦略を展開して来た感がする。


 4-1 年表


1996.09.14 二神重則会員、自分のインターネットホームページで「道後湯築城」のコーナーを立ち上げる。
1996.10.20 シンポジウム《戦国・織豊期の城と城下町パート2》(於えひめ共済会館)
1996.11.12 愛媛新聞報道「道後湯築城跡出上の瓦 長宗我部氏の岡豊城、中村城の瓦と同紋」
1996.11.23 森の国シンポジウム96「よみがえれ歴史ロマン河後森城跡」(於松野町)で湯築城跡の保存についてアピール(林俊明会員、林幸子会員、青野淑子会員
1996.12.27 愛媛新聞報道「道後公園県整備構想中世武家屋敷を復元」
1996.12.27 歴史教育者協議会第28回四国フロック研究集会(於友輪荘)で川岡勉会員が特別報告「戦国期守護河野氏と道後湯築城」
1997.01.07 川岡勉会員、南海放送ラジオ「SOね山ちゃん!どんどんワイド」に出演して湯築城跡について説明。
1997.01.23 川岡勉会員、再び南海放送ラジオ「SOね山ちゃん!どんどんワイド」に出演して湯築城跡について説明。
1997.02.01 NHKテレビ「とっておき四国 徳田章の今日はむかーしの道後へ行こう」放送。
1997.02.02 重信史談会郷土史講座で川岡勉会員が講演「道後湯築城跡の現状について」
1997.02.07 道後公園整備計画検討委員会が愛媛県の示した整備基本構想を大筋で了承。
        検討委員会の各委員から出た意見を加えた報告書にまとめて県知事に答申
→県は97年度予算に基本設計費計上→早い時期に実施設計策定、整備着工へ
1997.02.08 愛媛新聞報道「松山・湯築城跡で試掘調査大手門など遺構を確認」
「道後湯築城跡整備の基本構想武家屋敷を復元」
1997.02.22 道後公園埋蔵文化財調査現地説明会(220人参加)
1997.03.30 総会(於えひめ共済会館)
        記念講演:永原慶二氏「戦国時代の城・館・町」
1997.04.18 文化財保保護審査会、河後森城跡を国指定史跡とするよう文部大臣に答申
1997.07.16 山原健二郎衆議院議員(共)湯築城跡の現地調査
1997.07.21 川岡勉代表委員、河野メリクロン(於徳島県脇町)で、湯築城について講演。
1997.07.28 川岡代表委員、第7回河野氏関係交流会(於北条市)で「城郭・城下町プランから見た河野氏権力」と題して講演。
1997.07.29〜08.01 古谷直康運営委員ら、青森県三内丸山遺跡など見学。
1997.10.10 川岡勉「湯築城跡 保存運動を振り返る」(「愛媛雑誌」10月号)。
1997.10.24 島津代表委員、県(県民情報室)に対して、情報公間を申請。
1997.11.24 学習講演会「遺跡の保存と活用」(於東雲高校)。
(4-2 に続く)


 4-2 年表


1998.02.22 愛媛新聞、県が98年度予算に道後公園の整備等に2億9517万円計上したことを報道。
1998.02.28 朝日新聞愛媛版「くらしの中の予算」欄で「後手に回る史跡整備」と見出しして愛媛県予算を報道。
1998.03.07〜08 市村高男(高知大学教授・戦国時代の都市の研究者)湯築城跡を視察・見学。
1998.03.12 朝日新間愛媛版,「道後公国整備 専門家の声を」との見出しで報道。
1998.03.24 島津豊幸代表委員、近畿ツーリスト傘下の道後旅館経宮者を対象に「河野氏の歴史と道後湯築城」と題して講演(於道後宝荘)。
1998.04.05 総会・講演会(於共済会館)
        記念講演:市村高男氏「遺跡の保存運動とその整備活用」
1998.05.15 島津・川岡両代表を四国インターネット松山本部にお連れし、インターネットを見学。その日の夕方の運営委員会で、島津代表から「今、世の中でどえらいことが起きている。」とのインターネット評があり、この一言で守る会の公式サイト開設を議決。
1998.06.10 インターネットに「守る会」のホームページを開設
1998.06.14 文化財保存全国協議会第29回新潟大会  川岡勉「道後湯築城保存運動の到達点」
1998.11.02 島津豊幸「道後湯築城跡の保存復元と運用」(愛媛新聞:えひめ論壇)
1998.11.29 シンポジウム 道後湯築城と戦国期社会
1998.11.30 「道後湯築城は「政庁」」(愛媛新聞)
1998.12.01〜末 愛媛CATV「わいわいランド」で「守る会」の活動を放映(1カ月間)
1998.12.10 知事選挙公開討論会「政策フォーラム98えひめ」(候補者に対して「守る会」から質問と回答)
『歴史群像』37冬・春号に「市民が守る 道後湯築城」掲載
1998.12.14/15 知事選挙候補者に公開質問状を手渡し又は郵送
1998.12.18 「県埋蔵文化財調査センター遺跡発掘報告から(道後湯築城跡)質量とも西日本1、2位」(愛媛新聞)
1998.12.23 西岡弘之「道後湯築城跡整備・保存願う」(愛媛新聞:門欄)


 4-x1 思い出(その1)


 1998.11.29のシンポジウで、小野正敏先生は「今までに得られたデータだけだとこんな仮説も立てられる。」と、一乗谷その他の守護館と対比させて、湯築城は河野氏館であり守護の政庁であったと衝撃的な説を展開なさいました。
 小野先生の意図は湯築城が城であることを否定することではなく、「今までに得られたデータだけではこんな説だって成り立つのだ。これを覆したかったら早く全面発掘をやりなさい。」と敢えて刺激的な論を展開なさったのでした。これは聞く方にとっては衝撃で、翌日の新聞の一面にでかでかと載りました。
 シンポジウムの最後に、司会者の求めに応じて城郭フォーラム代表城さんが挨拶。これも又大当たり! インターネットを介して交流が始まり、この日のシンポジウムに遠方からわざわざFSIROの4人が参加したとが、小野説とともに大きく報道されました。

 この日の担当記者は大学を出たばかりの女性でしたが、始めて聞く話の連続で、目を丸くして取材していた姿を今も鮮明に思い出します。
 この日の衝撃が余程強かったのか、その女性記者は文化財に関する考え方を凄く勉強し、その後、彼女独りの筆ではありませんが、愛媛新聞文化部として素晴らしい論説を連載しました。強烈な印象が人を育てる一つの例と言えるでしょう。


 4-x2 思い出(その2)


  前掲のシンポジウムの前日、川岡先生の案内で小和田先生が湯築城跡を見学なさいました。その折、城さん、俊さんと私がお供をさせて頂きました。そしてその夜、小和田。小野両先生を囲んで守る会とFSIROの懇親会が開かれました。終わってから守る会の古参メンバーから、新風を吹き込んで呉れて有難うと礼を述べられ、良かったと安堵したことを覚えています。
  その後、珈琲を飲もうとFSIROの4人と島津先生と私とあと誰だったか忘れましたが、喫茶店に入り暫く雑談をしていました。人数が多かったのでFSIROの4人と私らとは席が別々でした。
  その年は湯築城跡を守る運動は一向に展望が開けず、翌年早々の選挙で当時の知事がまた当選したらもう見込みが無いとの悲観的な空気が強かった時でした。島津先生は雑談の中でふと、この状況を打開するには、守る会を発展させ、県下の文化財全部を対象とする活動に広げた方が良いのではないか。そのためにはNPO法人化すべきではないかと、私見をお述べになりました。このご意見は私らも始めて聞くもので少々驚きましたが、守る会の後身である文化財フォーラム愛媛の構想はこのときに芽生えたと言ってよく、この日の発言がその後の展開をリードするものとなりましたので、誠に卓見だったと感心致します。
  この年のシンポジウムは色々な意味でその後の展開に大きな影響を及ぼし、一つの画期をなすものだったと思いますが、その時はまだ誰も気が付いていなかったでしょう。


5.県知事交代で状況好転し国史跡へ


 1999(平成11)年正月の選挙で加戸現知事が当選し、就任早々に湯築城跡の価値を認める発言があり、運動開始10年にして漸く愁眉を開くことが出来た。この発言の後、県は調査完了区域の復元・整備に着手、島津・川岡両代表委員(当時)が加戸知事と懇談(1999.02.24)、守る会主催の講演会(1999.04)で、湯築城跡の調査員が県内で初の講演を行うなど、それまでは考えられなかった出来事が連続した。更に、県議会で守る会の請願が趣旨採択となった(2000.03)。この請願は湯築城跡の国史跡指定申請と未調査区域の調査計画策定を要望したものである。趣旨採択とは文字通り趣旨を採択したのであって、行政に対する拘束力はないが、行政がもしそれを実行しようとした場合、県議会は反対しないことを意味する。完全な採択に至らなかった点は不満であるが、過去総て葬り去られて来たことと比較すると、天と地ほどの違いがある。このような過程を経て、県は国史跡指定申請の準備に着手した(2001.04)。
 復元・整備なった公園が開園し(2002.4.12)、その開園式で知事と教育長が「守る会」の協力に対し謝辞を述べた。これは予想もしていなかったことで、大きな驚きであった。更に、開園当日、園内で出会った県職員から「あなた方が言って来たことが正論でしたね。」と言う言葉を聞き、世の中は本当に変わったと実感した。
 そして同年秋、湯築城跡は晴れて国史跡に指定され(官報告示2002.9.20)、13年にわたる運動の末、漸く目標の第一段階に到達することが出来た。


 5-1 年表


1999.01   知事選で加戸氏当選
1999.01.28 「湯築城跡は、歴史公園として文化財保存の精神に沿うものであると同時に、道後温泉としたリンクした観光の1つの名所にできないかなという気持ちを持っている。しまなみ海道の受け皿の1つにもなるだろうと思う。」(愛媛新聞:加戸守行新知事に聞く)
1999.02.05 愛媛県、『道後公園基本設計報告書』を発表
1999.02.06 「湯築城跡に武家屋敷復元 国史跡指定申請へ」(愛媛新聞)
        「湯築城跡を保護武家屋敷を復元」(朝日新聞)
1999.02.10 県埋蔵文化財調査センター課長が調査態勢の不備を指摘
1999.02.11 「道後湯築城跡 調査態勢が不備」(愛媛新聞)
        「搦手門近世的な構造」(愛媛新聞)
        「道後湯築城跡 県埋文センター 初の調査報告書」(愛媛新聞)
        県埋蔵文化財調査センター『湯築城跡』刊行(その日のうちに売り切れ)
1999.02.12 「道後湯築城跡 見どころ紹介 あす現地説明会」(愛媛新聞)
1999.02.13 現地説明会(600人)
1999.02.14 「発掘打ち切り残念」 現地説明会にファン600人」(愛媛新聞)
        「道後湯築城跡全容解明を」(愛媛新聞:アングル)
1999.02.16 「湯築城跡の調査再開を」(愛媛新聞:取材最前線)
1999.02.17 「河野氏の歴史に思いはせ 道後湯築城跡で説明会」(愛媛新聞)
1999.02.21 塩谷佳花「湯築城跡整備調査員参加を」、宮田規子「まぼろしの城で終わらせないで」(愛媛新聞:門欄)
1999.02.22 「調査継続の声相次ぐ道後湯築城跡」(愛媛新聞:ずうむいん愛媛)
1999.02.24 島津・川岡両代表委員、加戸知事と懇談
1999.02.25 「湯築城の調査継続要望 「守る会」が知事と懇談」(愛媛新聞)
1999.04.04 総会・講演会・懇親会(松山市民会館)
        記念講演 中野良一氏・柴田圭子氏「湯築城跡発掘調査の成果」
1999.09.20 運営委員会開催 川岡委員から「湯築城跡の国史跡指定と調査区域拡大を求める請願書」の文案が提出され、原案通り採択。
1999.12.07 湯築城跡の国史跡指定と調査区域拡大を求める請願書」を県議会に提出。
1999.12.10 「湯築城跡の国史跡指定申請と調査区域拡大を求める請願」は建設委員会で継続審議となる。
2000.03.11 湯築城搦手門発掘現地説明会
2000.03.13 愛媛新聞に「搦手門・橋遺構見比べて納得 道後湯築城跡説明会始まる」の記事。
2000.03.14 県議会建設・文教両委員会で、「道後湯築城跡を守る県民の会」の国史跡指定申請と調査区域拡大を求める請願」が趣旨採択された。
2000.04.02 記念講演会および総会
2000.04.20 愛5月10日  愛媛新聞に「湯築城跡発掘10年 構造変遷明らかに 全域調査へ態勢整備を」の記事。
2000.05.31 愛媛新聞に「湯築城調査報告書が完結 県、國史跡指定申請を検討」の記事。
2000.06.17/18 子規博で「日本貿易陶磁研究集会 四国大会」開催さる。媛県土木部都市整備課が「湯築城」のHPを開設。
2000.07.20 愛媛新聞「おもしろサイト」に湯築城HPが紹介さる。
        湯築城の外堀改修工事始まる。


 5-2 年表


2001.02.03 湯築城跡(道後公園)に復元する武家屋敷建築途中状況見学会開催さる。450名参加。
2001.03.05 島津、川岡、土居、県都市整備課訪問。別府課長、桧垣・坂本課長補佐、今井氏と会談。
2001.03.18 朝日新聞愛媛版「国史跡指定を目指し、測量費を来年度予算に計上した」ことを報道。
2001.03.24 芸予地震発生
2001.04.13 愛媛新聞は「湯築城跡 国史跡指定申請へ 県、近く測量調査に着手」と報道。
2001.04.16 愛媛新聞は、「復元進む道後湯築城跡 『生かし方』官民が探る 国史跡指定へ県、範囲確定急ぐ フォーラムや学習会検討 『守る会』歴史ガイド養成へ」と題し、武家屋敷などの復元整備が進められる中、県は史跡指定の範囲確定のための測量調査や、管理運営計画の検討に入る旨を報じると共に、管轄課の都市整備課の対応や城跡の保存運動を続けて来た「道後湯築城跡を守る県民の会」の動きを詳しく報道。
2001.05.21 道後湯築城跡を守る県民の会」の2001年度総会及び藤田達生氏の記念講演「藤堂高虎と伊予」を愛媛県総合社会福祉会館研修室にて 開催。新運動方針を採択。運営委員13名を選任。
2001.05.22 愛媛新聞は昨21日の総会を、「保存から研究・活用へ 湯築城跡を守る県民の会 運動方針を転換」と大きく報道。
2001.07.12 島津代表、県庁にて加戸知事と会談。
2001.07.17 島津・土居両代表、県教育委員会文化財保護課を訪問、同課森課長、池川課長補佐、都市整備課篠崎課長補佐、他2名と会談。
2001.10.04 文化財保護課長から島津代表に電話で、ガイド養成講座を2コマ担当して欲しいと要請。
2001.10.09 島津・川岡・土居の3名、県庁に文化財保護課訪問。申し出を受けるか否かは、カリキュラムを見てから回答することとする。
2001.10.20 緊急委員会開催。文化財保護課のカリキュラム案を検討の結果、講座では当会の信条を赤裸々に話すこととして、講師を派遣することに 決定。
2001.12.19 運営委員会開催。愛媛県教育長名で県の湯築城ボランティアガイド募集に対する協力を感謝するとの手紙が、島津代表の許に届いた旨報告。
2002.01.27 歴史講座「伊予の歴史と湯築城」第1回。参加者約120名と予想を遥かに上回り、次回以降会場を変更することとなる。以後、10回 にわたり毎月一回開催。
2002.01.28 愛媛新聞社会面に「歴史講座始まる」の報道記事。
2002.03.13 道後湯築城跡を守る県民の会の会代表宛に、道後公園(湯築城跡)開園式の招待状が県知事名で届く。
2002.03.25 道後公園(湯築城跡)西口に「湯築城跡」と表示された標識が設けられる。
2002.03.30 愛媛県、愛媛新聞・朝日・毎日・読売・産経の全国紙4紙に、『時をこえてよみがえる 道後公園「湯築城跡」 平成14年4月12日 (金)開園 一般公開13時〜』と一頁広告。
2002.04.09 愛媛新聞は愛媛県が「湯築城跡」を国史跡に指定するよう文化庁に申請したと報道。(秋頃に官報告示される見込み)
2002.04.11 愛媛新聞に道後公園「湯築城跡」の整備に当った15社が同公園の一頁広告を掲載。
2002.04.12 道後公園「湯築城跡」開園。開園式に招待を受け島津代表出席。県知事と教育長が祝辞の中で道後湯築城跡を守る県民の会の協力に言及。
        午後1時の開園直後、会員20名以上が一番乗りで観覧。
2002.04.16 愛媛新聞「取材最前線」に道後公園「湯築城跡」について「本物の力」と題する記事。
2002.09.20 湯築城跡国史跡に指定。(官報告示)
2003.01.01 「愛媛新聞賞」受賞
2004.06.06 文化財保存全国協議会第5回和島誠一賞(団体)受賞
2006.04.06 「城の日」に日本100名城(80番)に認定。


6.湯築城跡を守る運動を振り返って


 道後湯築城跡を守る県民の会の運動が始 まってから国史跡指定を受けるまで13年間、今振り返るとよく続いたものよと深い感銘を覚える。その間会員諸氏は何の見返りもないのに、会費と言う形で運動資金を拠出し続けて下さった。また運動が長期にわたったことは、即会員もそれだけ高齢化したことを意味し、成果を見ぬまま亡くなった方も多い。
 その13年間を振り返り、少しばかり思うところを述べて見たい。


 6-1 運動の長期化に耐え、成果を上げることが出来たのは


 運動の長期化に耐え、成果を上げることが出来た理由の第一は、政党色を排除し、純然たる市民運動に徹して正論を主張し続けたことにある。
 道後湯築城跡を守る県民の会は湯築城跡を守るために立ち上がった市民の集まりである。従って会員構成は市民構成の縮図である。思想・信条も社会的立場も 職業も様々である。そのように多種多様な人たちが最後まで団結し協力し合えたのは、全員の共通目標を「湯築城跡を守る」と言う一点に絞って、純然 たる市民運動に徹して正論を主張し続けたからにほかならない。会員の中には各党の県議もいたが、会の総会では政治的立場の異なる人たちが一堂に会し、一市民と して湯築城跡を守るために知恵を出し合った。このような姿は他では滅多に見られないであろう。

 第二は愛媛新聞が我々の運動を克明に報道してくれ、これが強い支援となった。守る会の武器は言論であるが、正直なところその主張や行事を多くの人に伝え る手段がない。仮に松山市の全戸にチラシを配ろうとすると、一回で何年分かの会費が消えてしまう。愛媛新聞が事前・事後に報道してくれたことは何にもまし て大きな支援であった。
 愛媛新聞がこのように報道してくれた裏に是非とも紹介して置きたい事実がある。同社は文化財に対する考え方を独自に調査・勉強して社としての見解を纏め、それを8日間に渡って連載したことがあった。その内容が守る会の主張とぴしゃり一致した。何れか一方が他方に迎合したのではなく、両者が独立して打ち 出した主張が一致したのである。この事実は我々の主張が第三者の目から見て正しいことを裏づけたものと言えよう。だからこそ同社は我々の運動を克明に報道 したのではなかろうか。

 第三は情報発信の効果である。運動開始当初から情報発信と言う意識を持っていたかどうか判らないが、守る会が採った方策が報道の対象となり易いもので あったことは間違いない。例えば、県議会に対する請願は必ず審議されることは前に述べたが、県議会の審議状況は自ずから報道の対象となる。また春・秋の講演会やシンポジウムは、テーマにもよるが、これも報道の対象となり易い。何れもマスコミ受けを狙ったものではなく、どうすべきかを追求した結果として採った手段が、報道の対象となり易いと言う好結果を招くことになった。
 守る会としても或る段階から明確に情報発信を意識するようになった。その一つの表れがインターネット上にHPを開設したことである。運動開始時から「会報ゆづき」を発行していたが、広がりの面では大きな壁があった。講演会などを開く前に各マスコミに案内状を送っていたが、それを報道するか否かは先方次第 であった。これに対しHPは自分達の意志で発信できる自前の放送局であり、色々な壁を一気に突き崩す有力な武器であるとの考えで開設したのであるが、これ が意図した以上の効果を招いたことは前述した通りであり、運動そのものに新風を吹き込んだ。

 今回はここまでとし、機会を見て若干補足したいと考えている。

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