道後湯築城の紹介(1)

《歴史的・文化的な環境を守り発展させ、風格のある地域づくりを進めよう。》

このHPでは湯築城や河野氏の歴史、発掘調査結 果、史跡を生かした公園整備の

進展状況を始め、湯築城跡の保存運動の経過等をお知らせします。

復元整備された城内の様子は2ページ以降に順次紹介して参ります。
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湯築城内最高の景観

 本壇下に露出する巨岩。これを正面に見る位置に上級武士館があった。
 それは河野館と推測するのが自然であろうが、文献資料等で裏付けられないと、考古学的発掘結果だけでは断定はできない。

丘陵西裾の四阿

 写真に撮ると映えるところで、良く新婚さんが記念撮影をしている。


満開の桜

 湯築城内は桜の名所でもあり、桜の開花や満開時期の基準となる「植物季節観測標本木」もここにある。
 約500本の桜があり、桜の季節には花見客で一杯。

道後公園完成予想図
   (愛媛県土木部都市整備課資料から抜粋)

 手前の旧動物園跡で史跡に基づいた復元工事が進行している。武家屋敷2棟を立体復元し、上級武士舘跡は平面表示を行う。
 旧動物園跡は16世紀前半に拡張された部分で、その時外堀と外側土塁が築かれた。14世紀前半から拡張までの200年間は内堀の内側のみであった。
 以下は全くの推測だが、築城当時は石手川が湯築城の直ぐ南側(左図では手前側)を流れ、それが天然の外堀の役を果たしていたのではなかろうか。
 もしこれが当たっているなら、湯築城は南側を石手川に、北側は石手川から分岐した御手洗川(寺井内川)に守られ、しかもこれらを介して海に繋がっていた と考えられる。

家臣団住居跡の出土遺物例
   (愛媛県土木部都市整備課資料から抜粋)

 調査区域では4段階の層が確認され、家臣団住居跡は明確に区画されている。出土遺物の量は26万点を越え、西日本随一である。復元さ れた遺物の90%は同じ区画から出土した破片で復元できたと聞く。
 この事実は、出土遺物は捨てられたものではなく、生活の状態を示すものであることを意味し、中世の日常生活を探る上で貴重な資料を提供してくれるものと 言えるのではなかろうか。

建築途中の武家屋敷
 武家屋敷は軸組み工法で造られているが、その構造は完成後は見れなくなる。そこで建築途中の見学会が催された。
 当日は予想を大幅に上回る450人が来場した。史跡に基づいた公園整備に対する期待の強さを示すものであろう。何人もの方から良かったですねと当会の活 動をねぎらうお言葉を頂戴したが、これは湯築城跡が文化財として守られたことに対する県民全体への祝辞と受け取るべきであろう。
 湯築城と言う遺跡をどのように活かしてこの公園を運営して行くか、これからが本番であり、今、漸くそのスタートラインに立ったばかりであることを銘記 し、同城址を真に地域の誇りたらしめる活動を展開せねばならない。
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