未知の史料に出会う 
運営委員    寺川 仁

 中学を出たら就職を考えていた私が、どういう縁か地元の大学へ進み、さらには大学院を出ることかできた。これは、私が歴史に強い関心を持ち続けていなければ、あり得なかったことだろう、と振り返ってみて改めて思う。
 中学生の時、愛媛新聞の「道後湯築城跡を守る県民の会」結成の記事を読んだ。その頃、郷土の歴史に関心を持ち、自治体史や戦国期の郷土の軍記物『清良記』にある程度目を通していた私は、「早く松山へ行きたい。大学に行って歴史の研究がしたい。遺跡保存の運動にも参加したい」という思いがその時芽生えたのだろう。
  現在、この会の運営委員として活動できることは、そういう意味で幸せに感じている。
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 さて、その当時から(それ以前からかも知れないが)言われてきたのは「中世に関する史料はほぼ出尽くした」ということだった。しかし、現状はその通念を覆しつつある。もう20年も前に刊行された『愛媛県史』資料編に所収の中世史料、ことに戦国時代のものは約1000点ほどであるが、それ以後も新しい史料が県内外で発見されており、識者の間では県史の再編を望む声もあがりつつある。
  先日発刊された「しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書」(県教育委員会)古文書編には約40点の新出史料が報告されている。これは、しまなみ海道が通る芸予諸島に割拠した海賊衆村上氏関係、あるいは伊予河野氏関係の文書類に限定されてはいるが、今回の調査に加え、個別論文所収の新出史料もまとめ上げられており、地域限定版の県史資料編補遺といえるだろう。
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 このような状況は、未知の中世史料がまだどこかに眠っている可能性を強く示唆している。
 特に、伊予国の戦国史研究においては、新しい史料はもうないだろう、既存のものを再検討して当時の社会を明らかにする他ない、という暗黙の理解が横たわっていた感がある。
 無論、既存の史料の再検討は、研究上重要であるが、同時に新しい史料を発掘する努力も忘れてはならないだろう。そして、常に新しい視点で、新しい社会像・歴史像を提示し、現代社会に問いを投げかけることも、歴史研究者の課題であり、また歴史に関心をもつ市民の要求であることは私がいうまでもない。
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 私も、松山に来て7年がたつが、その間にいろんな人に出会い、またいろんな史料に出会った。その一例を紹介したい。
 伊予の戦国史を彩る海上勢力に、海賊衆村上氏がいる。能島・来島・因島にそれぞれ拠点をおいたいわゆる三島村上氏である。そのうち、伊予の大名河野氏との関係が最も深いとされているのが、来島を本拠とした来島村上氏である。
 この来島村上氏の末裔として、豊後森藩主の近世大名久留島氏が知られているが、それ以外にもいくつか存在する。
 私が卒業論文で来島村上氏を題材に取り上げた縁で、おなじく同氏について地域おこしの観点からリサーチを進めている大成経凡氏と出会い、彼とともに来島村上氏・近世久留島氏にゆかりの土地を探訪することができた。
 その中で、訪れたのが広島県にお住まいの久留島氏であった。その家では、やはり名前に「通」の字を使うのが慣例で、また「隅切折敷に縮三文字」の家紋が大切にされている。
 その方の本家が近くにあるということで訪れたところ、近世初頭から中期に至る原文書一巻、ならびに近代の史料十数点を同じく一巻、その他箱に収められた近世・近代史料を見せていただいた。これらの史料については近く報告を予定しているが、系図によると、村上通康の弟長門守通義という人物を祖としている。この通義という人物については伊予では未知の存在であるので、通常この系図のみならば来島村上氏一族というのは疑問視されるのであるが、具備している史料には毛利氏や森藩久留島氏との関係を示唆するものがあり、この家が来島村上氏関係者である可能性は高い。
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 勿論、右の史料は新出である。時期としては近世初頭ではあるが、これは戦国期の来島村上氏の動向をも示唆する興味深いものである。戦国期の河野氏研究において来島村上氏の動向が注目を集めているが、この史料は河野氏研究の一助ともいえるものであろう。「河野氏や湯築城に関係ない話をするな」とお叱りをうけることなど、現在の状況であり得ない話だと思われるが、一応お断りするならば、私は戦国末期に河野氏が滅亡したあと、同氏の血脈を近世、現代まで保ったその代表格はこの久留島氏であると考えている。これまで何度も述べてきたが、戦国期の来島村上氏は、河野氏との特別な関係を想定してこそその実像が理解でき、それはまた河野氏の姿にも繋がっていくのである。  
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 さて、この安芸久留島氏の史料に出会うことができたのは、大成氏との出会いや、久留島さんのご好意があればこそである。大学では歴史の勉強もしたが、同時に史料調査を通じて、人の繋がりの大切さも学んだように思う。史料を探索することは重要な目的のひとつではあるが、同時に人との繋がりを深める手だてともなる。 これは、当然歴史に限ったことではあるまい。しかし、実利を重視する現代社会においてともすれば軽視されがちな歴史研究の、そのような側面はもっと理解されてもいいのではないだろうか。学問は、人類の未来に寄与するものでなければならない、といわれる。過去のことばかりを調査研究する歴史学が、現代や未来に貢献する学問としてその地位があるのは、歴史を考えることを通じて人間と接し、そして究極人間とは何であるのかを考察する、そういうことにも由来するのだろうと、遅まきながら感じるこの頃である。

 
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