第2回歴史講座要旨
 「鎌倉時代の河野氏と伊予」
    新居浜市広瀬歴史記念館 久葉裕可氏


 平安末期の伊予国の新興武士団については、現存する我が国最古の系図『与州新居系図』が、河野・新居・高市・別宮という面々を、それぞれ越智氏という豪族から分流したことを記している。しかし、河野氏に関しては作者である僧凝然自身が述べるように、越智氏の分流なのかどうか疑問があるが、この系図が作られた鎌倉時代には、彼らが同族意識を持っていたことを示している。彼らは、伊予国の政務の中心である国衙の役人、すなわち在庁官人として勢力を伸ばした。
 伊予国は、瀬戸内海交通の要衝に位置し、平安時代後期には院の近臣が国主を歴任し、また平氏政権期には清盛やその一族が国主となるなど重要視されていた。権勢を極める平氏と結びついたのは越智郡と道後平野南部に勢力を伸ばしていた高市氏で、風早郡を中心とした地域を基盤としていた河野氏と境を接するようになり、両者は次第に対立関係に入った。
 河野氏は、反平氏の兵を挙げ、源氏方として活躍するが、最初から源氏に直結しての挙兵かどうかは疑問がある。最初の挙兵は備後の平氏方の攻撃を受けて頓挫したが、再度の挙兵では平氏方の高市氏を破り、兵船三十艘を率いて源義経に属して転戦し、平氏を滅ぼした。このとき平氏方として新居氏の名前が『平家物語』に見られるが、河野氏との婚姻関係やその後の動向から、平氏方とみるかどうかは疑わしい。ま
た別宮氏も河野氏と行動をともにしたように思われる。
 河野氏は源氏政権下では鎌倉御家人として見られるが、一般的に東国武士に比べて西国武士は鎌倉幕府内において地位の低さがいわれるなかで、河野氏は鎌倉に居宅を持ち、伊予国守護からの独立して直接将軍の指揮下に入ることを認められるなどその地位は比較的高かったといえる。
 承久の乱において、河野氏がなぜ幕府方ではなく京方についたのかについては、執権北条氏との不仲説、守護との緊張関係、幕府寄りで伊予国の支配に乗り出した西園寺氏との対立説、幕府の待遇に対する不満等様々な動機が考えられている。鎌倉方として参戦したのが通信の子通久で、合戦後に通久が恩賞地をもらったのみで、当主通信は陸奥に流罪になるなど一族は没落し、以後河野氏の家督は通久の流れに移った。通久の子通時・通継兄弟は所領について争論となり、それは元寇で活躍する通継の子通有との争いへと受け継がれた。この時期の河野氏は在京御家人として京都で活動していた。
 弘安の役(1281)で活躍する通有は、『蒙古襲来絵詞』では当時32歳であった。蒙古襲来に備えて京から伊予へ帰国した通有の蒙古合戦における活躍は有名であるが、これは没落していた河野氏の名誉挽回には絶好の機会であり、奮戦して当然であった。『蒙古襲来絵詞』は河野氏が戦場において決着がつくまで烏帽子をかぶらない慣習であるとか、通有が着用している鎧が源平合戦で活躍した曾祖父通信のものであるといった通有の言葉を記している。後者は特に通有が河野氏の正当な家督であることを示すものとして興味深い。河野氏はこの時期すでに九州に所領を持っていた形跡がある。

 通有は、幕府から海賊取り締まりの命令を受けているが、なかなかその任務についた形跡がない。これはおそらく河野氏の一族が関与している可能性があり、そのためなかなか動けなかったものと思われる。この頃通有が対馬守に任じられているのは、その任官をえさに海賊取り締まりを幕府が働きかけたものであり、これを機に通有と海賊達の間に溝ができたようで、南北朝の動乱では河野氏が幕府(北朝)方であるのに対して海賊たちは南朝方として活動するなどこの後河野氏と海とのつながりが薄くなっていることが窺われる。通有の没年については、『予陽河野家譜』などに応長元年(1311)に没したと記されるが、その後元亨2年(1322)に通有が発給したらしい文書の存在や、元亨4年(1324)に通有の後継者について家督争いが起きていることから、その頃まで通有の生存が確認される。最終的には通有の跡は末子通盛が継ぐことになるが、時代は鎌倉幕府の崩壊・南北朝分裂へと向かい、河野氏の内部もまた分裂するなど落ち着かない時期が、室町時代の三代将軍足利義満の時代まで続くのである。



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