道後通信(2)
 道標から推理する道後の道と川 

不思議な道標
 道後から県道六軒家石手線を石手寺へ向かって歩いて行くと、プリンスホテルの東端の辺りから右に折れる細い道がある。その角に不思議な道標(第1図のA、第4図)が建っている。
 道後から来ると、石手寺はその角を右に曲がるように示されている。指示の通りに右に曲がり、少し行くと左に曲がる道があり、石手寺へはそれを行くように示す道標(第1図のB、第5図)がある。道標に従って左に行くと、元の道の下石手バス停に出る。
そしてその分岐点にも道標(第1図のC、第6図)があり、今来た道は松山方面、道後は元の道、即ち県道六軒家石手線を行くように示している。今の道路状況から見ると、これは極めて不自然である。だが、道標が間違っていると退けて良いのだろうか。道や川の位置が変わったため今では奇妙に感じられる状況になったのではなかろうか。
 道標そのものにも吟味すべき問題があるかも知れないが、それは置いておき、これら道標の表示が妥当性を持つ道と川の配置はないだろうか。ここではそれを推理して見たい。
第1図
 現在の道路と川
昔の道と川
 第2図をご覧頂きたい。図示したように街道と川筋が交差し、川の両側に道がある場合には、3つの道標の指示がごく自然なものとなる。では道と川の相対配置がこのような関係であった証拠或いは痕跡があるだろうか。実は少々気になる地図がある。
第2図
 3つの道標が妥当性を持つ道と川の位置関係
 それは国土地理院発行の地形図を集成した松山集成図(明治41年)である。第3図に該当部分を抜き出して示す。古い年代の地図なので印刷が不鮮明で判り難いが、子細に眺めると川筋は現在とは異なり、下石手のバス停付近で街道と交差していたように見える。地図にはないがこの川の両岸に道があれば、まさに第2図の通りである。
第3図
 松山集成図(明治41年)の一部
  編集:愛媛県教育研究協議会 社会科委員会
  制作・発行:(株)セイコー社)
 (備考:この地図は建設省国土地理院発行の5万分
     の1地形図を複製したもの)
 昔、遍路道は石手寺から義安寺の前を通って道後を抜け、大山寺へ向かっていたことは良く知られている。その道は第2図に示す川の北岸(図では上側)の細い道に当たるのではなかろうか。そして川の南岸(図では下側)にも細い道があったのであろう。この道が道標Aの地点で川岸から離れて街道に合流していたと推測される。そのような道筋になった理由は当時の地形の関係と思われるが、今となってはそれを探るのは難しい。
 この南側の道は御手洗川の左岸に沿って進むので、必然的に道後温泉をバイパスし、樋又に至る。「松山の道しるべ」(松山市教育委員会編集、松山市役所発行)P.52に道後温泉をバイパスする遍路道があったことが記されているが、このルートがそれに当たるのではなかろうか。
 以上3つの道標からかっての道後の道と川の姿を推理して見たが、これはあくまで一つの可能性を探る知的お遊びである。実は道標そのものにある疑問を感じており、それを追及して行けば、別の可能性が浮かび上がるように感じている。

第4図 道標A
道後・石手寺を結ぶ県道六軒家石手線の途中で、石手寺へは右折するように示している。
第5図 道標B
道標Aの指示に従って右折すると、すぐ写真の道標がある。今度は左折するようにと言う。
第6図 道標C
道標Bに従って進むと元の道に戻る。この道標は、道後は県道六軒家石手線を行くように指示している。

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