昔の道と川 |
第2図をご覧頂きたい。図示したように街道と川筋が交差し、川の両側に道がある場合には、3つの道標の指示がごく自然なものとなる。では道と川の相対配置がこのような関係であった証拠或いは痕跡があるだろうか。実は少々気になる地図がある。
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第2図
3つの道標が妥当性を持つ道と川の位置関係 |
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それは国土地理院発行の地形図を集成した松山集成図(明治41年)である。第3図に該当部分を抜き出して示す。古い年代の地図なので印刷が不鮮明で判り難いが、子細に眺めると川筋は現在とは異なり、下石手のバス停付近で街道と交差していたように見える。地図にはないがこの川の両岸に道があれば、まさに第2図の通りである。
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第3図
松山集成図(明治41年)の一部
編集:愛媛県教育研究協議会 社会科委員会
制作・発行:(株)セイコー社)
(備考:この地図は建設省国土地理院発行の5万分
の1地形図を複製したもの) |
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昔、遍路道は石手寺から義安寺の前を通って道後を抜け、大山寺へ向かっていたことは良く知られている。その道は第2図に示す川の北岸(図では上側)の細い道に当たるのではなかろうか。そして川の南岸(図では下側)にも細い道があったのであろう。この道が道標Aの地点で川岸から離れて街道に合流していたと推測される。そのような道筋になった理由は当時の地形の関係と思われるが、今となってはそれを探るのは難しい。 |
この南側の道は御手洗川の左岸に沿って進むので、必然的に道後温泉をバイパスし、樋又に至る。「松山の道しるべ」(松山市教育委員会編集、松山市役所発行)P.52に道後温泉をバイパスする遍路道があったことが記されているが、このルートがそれに当たるのではなかろうか。 |
以上3つの道標からかっての道後の道と川の姿を推理して見たが、これはあくまで一つの可能性を探る知的お遊びである。実は道標そのものにある疑問を感じており、それを追及して行けば、別の可能性が浮かび上がるように感じている。 |
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