北条ふるさと館での記念講演を振りかえる
寺川 仁
 
 去る五月二十六日、北条の風早歴史文化研究会のお誘いで、河野氏発祥の地北条市において戦国期の河野氏研究についてお話しする機会を得た。研究といっても、小稿「戦国初期における守護大名河野氏と海賊衆来島村上氏?来島騒動の検討を中心に?」(『瀬戸内海地域史研究』第八輯)をそのまま報告したに過ぎず、また準備不足の報告で会の方々にはかえってご迷惑だったのではないかと危ぶまれるが、講演の間の反応は思ったよりもあり、報告者としては救われた思いである。
 さて、周知の通り、河野氏の歴史は、現在研究状況の進展により新たな姿を見せ始めている。中でも、戦国期については道後湯築城の発掘成果の影響が大きいことはいうまでもないが、これまで河野氏の歴史を述べるにあたり依拠されてきた文献史料の研究の深化とも相まって、この時期の河野氏の大名権力の様子がより具体的に明らかになってきている。
 特に、最近の戦国期の河野氏研究における焦点が瀬戸内海の海賊衆来島村上氏の統率者、村上通康の存在に当てられていることは注目される。今回は、北条市近辺、いわゆる風早の地にも縁の深いこの来島村上氏について、その動向や河野氏権力における地位を究明するという研究動向をふまえ、不十分ながらも拙論で検討した河野氏の家督相続争い、いわゆる「来島騒動」について、通説とは異なる見解がだされていること、歴史像が変わってきているということについて述べたつもりである。以下に今回の講演の概要を示そう。
 通説では、この「来島騒動」とは、嗣子のいない河野弾正少弼通直が、女婿村上通康に家督を譲ろうとして家臣団の反発に遭い、家臣団が擁立した室町期以来の河野氏の有力な庶流予州家当主六郎通政(後の晴通)らによって通康とともに湯築城を追放され、晴通が家督、通康は河野姓と家紋等を許されるということで和解した、という説明がされてきた。
 これに対し、西尾和美氏はこの出典である『予陽河野家譜』に記される婚姻関係を検討し、弾正少弼通直と六郎晴通が実の父子の関係にある可能性が高いことを指摘された。また、さらに戦国末期の河野氏当主を取り巻く婚姻関係による毛利=河野ネットワークの追究の結果、河野氏最後の当主牛福丸通直は、村上通康と宍戸隆家の女との間の子であり、後に隆家女が左京大夫通宣に再嫁し、河野氏当主の正室の地位を獲得したことで、牛福丸通直の家督相続が可能となったとの結論に達した。そして小稿では、西尾氏の最初の指摘をふまえ、通直?晴通父子説のさらなる傍証と、村上通康の出自についても検討した結果、この家督争いは、通直の嫡子晴通と、庶子通康の間に起こった騒動であり、それは、川岡勉氏が明らかにした河野氏の分国支配拠点の二元性(後・府中=今治地域)や河野氏の外交政策を象徴する騒動といえるのではないかという仮説を提起した。
 講演では、史料として通説の典拠『予陽河野家譜』の該当部分や、「河野父子」の和解斡旋を大友氏に命じた幕府の御内書、晴通書状、そして関係者の花押などを示し、順次説明を加えた。晴通の書状や花押の形状の説明にはかなりの反応があり、この検討内容にかなり関心を引いたのではないかと思われる。しかし、終了後に質問が皆無であったところをみると、私の報告方法に問題があり、理解に苦しまれたのではないかと反省する次第である。 
 もうひとつ反省すべき点がある。それは、講演が研究報告のみに終始したため、ある意味参加者のニーズに応えたものではなかったのではないか、ということである。おそらく、この講演を聞きに来られた方々は、現在の河野氏研究に対する知的欲求を満たすという理由も当然のことながら、その成果を、どのように考え、どのような道に生かせばよいのかという疑問を解く一つの鍵として捉えられていたのではないかと思われるのである。私は、講演会とは聴衆が主人公であるべきで、講師は自らの研究成果を聞き手が活用しやすいように話さなければならないと考えているが、今回は私の力量や全くの個人的事情によりその労を避けてしまった。実は、前述の疑問は、私も常に念頭にあるのだが、未だに明確な答えを出せずにいるため、いわば底の浅い話となってしまったのである。結局、質問が無かったというのは、その答えが私からでは引き出せない、という一言に尽きるであろう。
 しかし、私も歴史、特に郷土史に興味を抱いて以来、長年(私にとってはであるが)考え続けてきた難題である「歴史とは何か」「なぜ歴史を研究する必要があるのか」という問いの答えが、最近ぼんやりと見え始めている。今回の講演で当初お話しするつもりでいたのだが、この場でそのことをお話しして講演の補足としたい。それは「歴史に対する誇り」というテーマである。
 わたしの歴史に対する興味は、郷土の英雄である戦国期の国人領主土居清良に対する敬慕の念から始まった。その史料『清良記』では清良は知勇兼備の名将として描かれ、豊後大友氏や土佐長宗我部氏の侵攻をよく防ぎ、まさに郷土を守るヒーローであった。しかし、大学に進み、歴史研究というものについて本格的に取り組んでみると、その原典『清良記』は史料としての価値に問題があることがわかり、さらには、歴史とは権力者や強者によって叙述される場合が多く、そのため彼らに都合の悪い史実は削除され、いいように書き換えられるものであることを知ったために、私自身『清良記』に対して懐疑的・批判的視点から接するようになった。私は、歴史とは物語などでは決してなく、あくまでも事実(の追究)であり、科学であることを学んだのである。
 「誇るべき歴史」とよくいわれる。この考え方は一見間違っていないように見える。しかし、過去にすばらしい努力をし、人間社会に貢献した人物を輩出した、あるいはすばらしい伝統的文化がある、などといった諸々の歴史的事実を誇るということは、どういう意味を持つのであろうか。もし、誇るということを「他より優れていることを感じる」こととして捉えるならば、最近の情勢を鑑みればそれは誤りであることがわかる。それは中学歴史教科書の問題が象徴的であろう。「他より優れる」ことを意識するならば必ずと言っていいほど「排他的・自己中心的」に陥る。そして無理矢理「他より優れている」歴史を作ろうとする陥穽が待っている。当然そこには史実の恣意的操作・歪曲があり、その結果が、東アジア諸国からの日本の中学歴史教科書検定問題に対する反発・抗議である。
 これを、道後湯築城の保存運動に置き換えてみよう。近年の発掘成果では出土遺物の量が西日本随一であり、全国的にも有数の中世城郭遺跡であることが明らかになった。今後さらに発掘計画が進展すれば、その出土量は計り知れないものになるであろう。しかし、私たちは湯築城が「出土遺物量最多」「全国的にも有数の重要な遺跡」ということを「誇り」にするべきであろうか。
 いったい、この道後湯築城が当初の日本庭園計画から、現在のようにれっきとした中世城郭遺跡として復元されるに至るまで、どれだけの人の努力があり、支えがあったであろうか。そのような経緯を無視しては現在の湯築城保存は決してなかったはずである。
 また、他の遺跡が湯築城に比べて規模や遺物の出土量が劣っていれば「誇る」ことができなくなる、という理屈にも当然行き当たる。それは、他の遺跡の正当な評価を妨げるものとなり、湯築城の保存運動は一挙に孤立してしまうことになりかねない。「誇る」ということは、それだけ難しい問題をもっており、迂闊に口にできない言葉であると思われるのである。歴史とは、個人的所有物ではない。様々な人間が関わり合って生まれる過去の総体である。私たちは、その中から信頼しうる史料を用いてその一部分を復元しようとしているにすぎない。しかし、その一部分の復元でさえも、数多くの人々の真摯な努力によってしか実を結ばないのである。
 私は、もし歴史に対して「誇る」というのであれば、史実に対して「誇る」のではなく、そうした現在に生きる人々の歴史に対する「姿勢」こそ唯一誇りうるのではないかと思うのである。歴史研究に限らず、歴史が関係する範囲の営為、たとえば歴史的景観・史跡を利用した町づくりであれ、歴史教育の場であれ、あるいは地域の歴史研究会であれ、史実に対してどのような姿勢で臨み、その活用をふまえて現在、あるいは未来の人間社会にどのような形で貢献するべきか。考えなければならない課題が多い中で、どのようにしてそれらの問題を克服するか、その努力を惜しまない「姿勢」こそ評価されるべきだと考えるのである。
 その「姿勢」として、ひとつ忘れてはならないのは常に「批判的」に歴史に対するということであろう。いつまでも通説にしがみつかず、自分自身で史料を確認し、通説の解釈が適しているかどうかを吟味する。そういう作業を繰り返すうちに、より真実に近い新たな歴史像が生まれるのである。堅苦しい学問論かも知れないが、そうした研究をするのに老いも若いも関係はない。先学を正しく受け止め、克服しながら学問は進歩するのであるから、むしろ若い者が奮起しなければならない。私は、そのつもりで小論を世に出したわけであるが、その際いろんな方々からのお世話・ご協力をいただいた。そのときの周囲の理解が、今の私の研究意志を支えてくれている。
 今回の講演も、風早歴史文化研究会のご理解により浅学の私に大変貴重な体験の場を提供していただいた。お世話になった北条ふるさと館長竹田覚氏、風早歴史文化研究会会長山田憲正氏、同じく常任理事平野環氏を始め、風早歴史文化研究会の皆様に対して心より謝意を表したい。
(運営委員)

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