「二神系譜研究会」からの報告                     

           道後湯築城跡を守る県民の会   運営委員(学習担当)      二  神  重  則
 

  二〇〇一年三月一八日に子規記念博物館で「片山二神文書」の解説と説明の会を予定しています。それと共に私共の先祖の「二神種(九郎五郎)」が一四六五(寛正六)年九月に討死した地だと思われる、「道後湯築城」の説明会を計画しています。
 「片山二神文書」は、東京大学史料編纂所と松山大学図書館に保存されていて、今回の解説には松山大学のものを利用しました。昨年、二神系譜研究会の会報「海の民ふたがみ」の原稿を書くにあたり、その「片山二神文書」の二神系図に記述されていた朝鮮の役に大変興味深い内容がありましたので、愛媛大学の田村憲治教授に分かり易く説明を受けました。その折りに、私共の会の人たちにも同文書の解説をお願いしまして、一八日に実現するはこびとなりました。
 「二神種」の系図の記述は「寛正六年九月六日於豫州道後討死○自細川勝元感状有之久留島信州家臣一族所持之」とあります。一四六五年は惣領家の河野教道と庶子家の通春の時代で、双方長い間の戦いが続いていましたが一時休戦状態だった時期だとされています。その時期のことを川岡勉氏著『河野氏の歴史と道後湯築城』に見てみますと、次のように書かれています。

    細川氏が河野氏の庶子家を支持した背景には、庶子家を通じて伊予に勢力を伸ばそうという意図があったと考えられる。この事実は、伊予の内紛に対する幕府の対応にも、甚大な影響を及ぼす。すなわち幕府は、畠山氏が管領の座にあるときには教通救援を諸氏に命じるが、細川氏が管領に就任すると通春を援助する態度に転じるのである。一八〇度異なる幕府の政策は、伊予国内の混迷を一層深めることとなり、絶えざる戦火に明け暮れる結果を招いていく。

     『築山本河野家譜』によれば、寛正四(一四六三)年、河野氏家臣の重見・森山・南・得能・和田氏ら数十人が一揆を企て、細川氏と結んで阿波・讃岐・土佐の細川軍を国内に引き入れるという事件が起きる。通春及び教通弟の通生は、細川氏に対抗する周防の有力大名であった大内氏に救援を乞い、湯築城を包囲して激しい合戦に及んだ。その激しさは、石手川が三日間紅血に染まるほどであったという。(中略 )この合戦の直前には大内政弘の父教弘が滞在中の興居島で病死するというアクシデントに見舞われているが、まもなく反乱は鎮圧された模様である。(六九〜七〇ページ)
  県史の年表では八月二五日に「幕府、細川勝元の申し入れによって近国の諸将に河野通春を討たせる。大内教弘、兵を率いて伊予に来てひそかに河野通春を助ける。」九月には、「細川勝元の兵、通春・政弘の軍と伊予で戦う。」と書かれています。また他の資料によると「細川勝元、河野教通を道後に攻む。」とあります。これらのことから推測するに、二神種(九郎五郎)は、細川方として働いたようです。

 系図に書かれていますように、二神のこの系統は一六〇一年に来島氏に従って豊後森(大分県玖珠郡森)へ行きました(来島氏は久留島と名前を変えています)。私共の会では今年の九月に玖珠郡森で研究交流会を計画しています。先日研究交流会の下見と講演のお願いをしに行きました折り、参勤交代時に二神島に寄りながら、当時の二神島当主二神種章に会えずじまいだった子孫の方に、種章の記述したもののコピーなどを仏前に供えることが出来ました。二五〇年の時を越えて会えなかった先祖の代わりを務め、秋には四〇〇年の昔離ればなれになった二神さん達と会う機会を作りたいと思っています。
 一八日は田村教授の「片山二神文書」の解説が終わりました後、私は二神種の事を話します。またせっかくの機会ですから、中世城跡としての「道後湯築城」と近世城郭「松山城」との比較なども話し、その後は参加者の皆さんと「湯築城」の現地を見て回りたいと思っています。

 
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