日本貿易陶磁研究集会 四国大会に出席して

       道後湯築城跡を守る県民の会 運営委員(情報担当) 土居 敬之介


[テーマ]   城館出土の貿易陶磁器 −織豊前夜の西国大名と貿易−
[ねらい]      1.四国・中国・九州の瀬戸内沿岸の中世後期(戦国期)の守護・戦国大名の城館、国人クラスの城館、その他の城、集落等の出土状況の把握。
                 2.上記、出土状況の比較を通して見える共通点と相違点について、その背景にあるものを以下の視点で追求する。
                   1.遺跡の性格
                   2.陶磁器の時期的ピーク
                   3.陶磁器のランク
                   4.地域性
                   5.領国支配や貿易に対する政策
 [日 程]   2000年6月17日(土)・18日(日)
 [会 場]   松山市子規記念博物館

 今度の集会は私のような素人でも、非常に内容の濃い、意義ある研究集会だったと感じました。

 個々の内容は素人の悲しさ、とても理解できませんでしたが、愛媛県埋文センターの柴田さんの報告の、湯築城跡と見近城跡の出土品に共通性があると言う報告は注目されました。両者で同じものがセットになって出土することから、能島村上氏が交易あるいは物流に深く関わっていたことは間違いなく、見近島城はその中継基地だったと考えられること、そして河野氏と強く関わっていたことが推測されるとのことでした。

 三島村上氏の中で河野氏と一番繋がりが強かったのは来島村上氏で、その来島村上氏が河野氏と能島村上氏との間でどのように関わっていたのかが明らかになって始めて、この件がすっきりするのですが、来島村上氏の交易ないしは物流に対する関わり方について資料が全く無いので、今後の調査に注目すべきでしょう。

 海賊衆が物流に深く関与していたことは知られたことですが、貿易陶磁器に関与していたのは注目すべきことでしょう。ただこれだけでは海賊衆が海外まで行ったのかどうか、何とも言えませんが、私は行っていたと思いたい気持ちです。

 個々の報告は専門的過ぎて理解できませんでしたが、2日目の午後の討論は非常に面白く拝聴しました。会場には各県の報告者以外に、歴博の小野先生、高知大学の市村先生、米原教委の中井さん、地元では愛媛大学の川岡先生、その他錚々たる専門家がいらっしゃり、司会者がテーマごとにそれらの方に発言を求めたので、それぞれ独自の見解をお述べになり、会場を唸らせました。

 なお、小野先生は埋文センターの中野さんと司会を担当し、冒頭に昨日の報告から色々な視点・問題点を抽出し、討論のポイントをお示しになりました。専門家の思考と言うものを垣間見た感じがして、強く印象に残りました。

 各先生方のご見解で記憶に残ったものを紹介します。各先生方のご見解がどのような場面で述べられたのか、更には各ご見解の相互の関連などを明確に出来ず申し訳ありませんが、素人故とご容赦下さい。

(1)海の流通ルートに瀬戸内海航路と日本海航路があることは知られているが、今回の各県の報告は今一つ黒潮ルート(太平洋ルート)の存在を想定しなければならないことを示唆している。
 大内氏の出土品に東南アジアの陶磁器が存在しないのに対し、大友氏や南予の河後森城、土佐の一条氏関連の出土品には東南アジアの陶磁器が相当量存在し、この両者は明らかに交易ルートや交易の相手が異なると考えられる。

(2)四国西南部は古くから南方貿易の拠点であり、西園寺氏、一条氏はそこを抑えるために派遣され、土着した。豊予海峡の対岸の大友氏が東南アジアとの交易を行なったのは宣教師の影響と人脈によるのではないか。そして、大友氏、一条氏、宇都宮氏は婚姻関係で結ばれている。

(3)土佐東部は古くから京都へのルートがあったことが確認されているが、西部は鎌倉時代に京都ルートがあったかどうか、確認できない。東部と西部とではかなり様子が違う。

(4)博多では14世紀のベトナムの品が纏まって出て来る。少し後にはタイの品が東支那海を囲む地域から出土する。16世紀になるとこれらが瀬戸内に広がり、海賊衆の活動が変わったことを窺わせる。

(5)河後森城は各曲輪に家臣の住居が作られ、谷には何もない。山城は低地に住居があり、高い所は戦の施設が存在するのが普通だが、河後森城は両者が共に高い所に存在する。奥羽の○○城(どこだったか忘れました)がこのような形式であるが、その形式の存在が河後森城により確認できる。

(6)城の構造論から見ると、見近島は城でなく、物資の集散基地、中継基地と考えるべきである。

(7)海賊衆が単に流通を担っただけでなく、海外との交易に携わった可能性もある。

(8)各地の出土品の出現頻度を子細に眺めると、ランクの上下により出て来る物が異なる。これは当時の価値観を示すものと考えられる。また、黒潮ルートと瀬戸内ルートでも異なり、地域差も認められる。

 ざっとこのような内容でした。何分にも素人のこと、十分に理解出来たとは申せませんし、正確にお伝えすることは到底不可能です。その点はご容赦をお願いします。更に間違いもあるかも知れませんが、この点もご勘弁を。

【備考】市村先生、小野先生、中井さんは道後湯築城跡を守る県民の会の記念講演会、または秋のシンポジウムに講師としてお招きした方々です。
 

 この報告を談話室に書いた後の運営委員会の席で、川岡先生から次のようなご指摘を頂戴しました。

 出土した貿易陶磁器の量は、湯築城跡が桁違いに多く数万点、見近島が2千点、他は200とか300という量です。従って湯築城の遺物の出土状況が一つの基準として使えるであろうとのことでした。

 これを伺って集会当日にもこの点を指摘されていたことを思い出しましたが、その意味を私なりに考えると次のように言えるように思います。

 湯築城跡の遺物は量の多さに加えて、その出土状況は生活していた当時の状態を示しています。一般に発見される遺物は捨てられたものである場合が多く、その廃棄物から当時の状況を推測しなければならないとは、どなたかの著書に書かれていましたが、この点で湯築城跡の出土状況は特異だと言えるでしょう。

 湯築城跡では復元した遺物の90%は一つの区画から出土した破片だけでできたのだそうです。どうやら火災か何かで壊滅し、しかも再建する際には土を盛った上に新しい建物を構築しているので、生活していた状態がそのまま埋もれたと言うことでした。

 従って発見された遺物を子細に分析すると、どのランクの人がどういうものを使っていたかが判り、当時の価値観が窺えるとのことでした。つまり、単に遺物の質・量だけでなく、それらが生活の場で発見されたことが大きな意味を持ち、いろいろな角度からの分析に耐えることが貴重だと言うことでしょう。

 このような話を聞くと、湯築城跡が如何に貴重な遺跡であるか、あらためて実感した次第です。


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