出 土 遺 物 か ら わ か っ て き た こ と

      愛媛県埋蔵文化財調査センター 柴田 圭子

 湯築城跡の発掘調査が開始されて、年以上が過ぎました。私は発掘開始当初、昭和63年と平成元年には、発掘調査を担当し、遺跡の保存が決定した後の平成4年からは主として出土遺物の整理作業を担当してきました。
 今回は、その出土遺物を詳細に検討することによって、湯築城の何が見えてきたのか、という点をまとめ、今後の報告書に生かしていきたいと考えています。

1. 何がどのくらい出土したのか。それはいつ頃のものか。
 湯築城跡から出土した遺物のうち、土器や陶磁器といった焼き物は、すべて破片の数をカウントしています。その結果、現在までに合計が、232,546点(平成年度調査分は含まない)となりました。これは、焼き物以外の石製品や金属製品、瓦などを含んでいませんので、おそらくすべてをトータルすると25万点くらいの出土があったものと推定されます。  
 これらの湯築城跡から出土した遺物を、種類と器種に分けて、何がどのくらい出土しているのかを確認してみます。まず、最も多く出土しているのは、土師質土器という地元で焼かれた素焼きの土器です。これが全体の78%程度を占めていて、器種別に見ると、皿・杯がほとんどです。ほかにも釜や鍋、擂鉢などもみられますが、それらは少数です。次に多く出土したのは備前焼で、15%を占めています。器種は大甕が多く、壺・擂鉢が続きます。
 そして、湯築城跡と言えば外国から輸入した陶磁器類が多く出土したことで、全国的に有名ですが、その輸入陶磁器は、全体の5%程度を占めています。そのほとんどは中国製のもので、青磁・白磁・青花(染め付け)などがあり、器種は碗・皿が多いです。
 さて、これらの土器・陶磁器の製作年代から、出土した層の年代を推定すると、湯築城跡2段階と呼んでいる炭・焼土におおわれた遺構面が、16世紀中頃、最も上の廃城まで継続していた遺構面が16世紀後半と推定できます。そして、内堀と外堀が掘削された時期については、調査がほとんどされていないので、明確に断言することはできませんが、二段階と近接する時期と推定されます。

2. 出土したものの用途はなにか。
 出土した遺物がいったい何に使用されたのかということは、実際のところ不明な点が多いのですが、出土したものの器形(碗・皿・壺など)が本来持っている機能から、大きく4つの分野とそれに含まれないものに分けることができます。
 そのひとつは供膳具で、膳にのせる碗や皿という食器類のことです。次に貯蔵具があります。それは甕や壺のことで、基本的には容器の中に水や油や穀物などを蓄えておくものです。また、煮炊具は鍋・釜のことで、文字通り煮炊きに使用します。そして、調理具です。これは、擂鉢が該当します。
 これらに含まれないものとしては、香炉や火鉢などがありますが、統計的にはごく少数です。ただし、香炉や、青磁の盤(大形の皿)や、青磁・白磁などの壺類、高麗青磁など、ほんの少数しか出土しない珍しい焼き物は、小野正敏先生が「威信財」と提唱されていて、当時のステイタス・シンボル的な意味を持っていました。ですから、少数であってもこれらがどこからどのくらい出土したのかは、非常に重要です。

3. どの用途のものがどこからどのくらい出土したのか。
 さて、以上のように、いろいろな用途の遺物が出土していることがわかってきましたが、それらは、どのくらいの比率で出土しているのでしょうか。それは、おおよそ供膳具が75〜80%、貯蔵具(大=大型の甕)が13〜15%、貯蔵具(中小=小型の甕・壺)が2.5〜3.5%、煮炊・調理具はともに1%強くらいの比率で出土しています。そしてこの比率は、現在までに発掘調査の終了した、旧動物園区においてはほぼ共通しているようです。

4.以上のことから何が推定できるのか。
 私たちは昨年、「湯築城跡」第1分冊という発掘調査報告書を刊行いたしました。この本は、旧動物園区の西側地域、「家臣団居住区」という名称で呼ばれている地区を対象としています。この「家臣団居住区」という呼び方は、遺構のあり方、つまり土塀や石列・溝による区画の中に礎石建物が1棟ずつ建っているような均質なあり方から、発掘当初から使用されてきたものです。
 それでは、遺物の様相はどうなのでしょうか。「家臣団居住区」ということを遺物から裏付けることはできるのでしょうか。私は、今までお話を進めてきました、遺物を用途別にとらえる考え方で、何か言えるのではないかと考えました。
 そこで、家臣団居住区でも特に遺構・遺物ともに残り具合の良好であった2段階(16世紀中頃の遺構面)を対象に、各礎石建物をもつ区画ごとに何がどのくらい出土したのかを見てみました。すると、供膳具では、土師質の皿・杯はどの区画からも多数出土しますし、輸入陶磁器の碗・皿・杯についても十数個以上数十個出土していることがわかりました。貯蔵具についても、大も中小もすべての区画で出土しています。煮炊・調理具も同様でした。その他にも、石臼や砥石、硯、あるいは金属製の武器や武具(鉄鏃や刀装具、小札など)もすべての区画で出土しています。また、先ほど述べました「威信財」に該当する様々な陶磁器類もすべての区画でみられます。
 これらのあり方から、この地区の生活を考えると、すべての区画で、陶磁器の食膳具で膳を整えることができ、甕や壺に水や油などを蓄えていて、当然調理や煮炊きといった炊事も行う、といった非常に生活くさい様子を推定できます。これらの特徴は、各区画が均質であり、生活的に自立している、ということだといえます。その結果、遺物の面からも「家臣団居住区」という性格を裏付けられたと考えています。
 さて、私たちは現在報告書の第2分冊に取り組んでいますが、そのなかでは、今まで述べてきた考え方をさらに推し進めて、調査した地点全体に応用したいと考えています。
 全面的に発掘調査を行ったのは、旧動物園区だけですが、その他の区域については、細かく試掘調査を行いました。その際、現在のグランドのある、丘陵の東側にあたる部分をA地区、中央の丘陵部をB地区、現在の電車通り側にあたる丘陵の西側部分をC地区として調査しています。そして、各地区からも多くの遺物が出土しました。 
 それらを用途ごとに分けて、その比率を旧動物園区と比較してみると、やや違いが認められます。A地区とC地区は、少し貯蔵具が多くなっており、その分供膳具の比率が低くなっています。しかし、いずれの用途のものも、ある程度の安定的な比率で出土が見られ、旧動物園区同様に居住区的な出土傾向の範疇にあるといえそうです。ただし、B地区については、全く出土傾向が異なります。この地区では、供膳具が全体の97.6%を占めていて、他の地区が70〜80%であるのに対して非常に高い比率を示しているのです。また、その供膳具内の内訳をみると、99.6%が土師質土器の皿と杯で占められていて、B地区の出土遺物はほとんどが土師質土器(素焼き)の皿と杯であるといえます。
 実は、土師質土器の皿や杯は、最も出土頻度の高い土器であり、当時の最も安価な焼き物でありながら、それがまとめて捨てられたような状況で出土すると、全く異なる意味を持つことになります。当時の儀式・儀礼・宴会などの場においては、むしろ土師質土器の皿・杯を使用し、使い捨てることが行われていたと考えられています。つまり多くの土師質土器がまとめて出土するということは、そのような使い捨てを行う場が、付近にあったことを示していることになります。丘陵部にあたるB地区では、大変多くの土師質土器の皿・杯が出土しました。そのうち、多数は丘陵の南側と西側の斜面から出土したものです。出土状況から見て、これらは丘陵上で使用したものを斜面に捨てたか、あるいは長い年月の間に斜面に滑り落ちたと考えられますが、丘陵上に、ある期間(土器を見る限り世紀、内堀と外堀を掘って以降の事です)、土師質土器の皿・杯を大量消費する場が存在したことは確実といえそうです。
 ところで、このように土師質土器の皿や杯が多く出土する地点は、丘陵部に限られるわけではありません。これまでの調査で、旧動物園区でも土器溜りとして数カ所みられましたし、年度の調査で東側グランドの周囲、外堀土塁との境あたりでも確認できました。これらについては、出土した遺構面の確認や、土器溜りの規模などを比較することによって、それが存在する地区の性格に迫っていくひとつの手がかりになろうかと考えています。
 また、やはり気になるのは、「上級武士の居住区」と呼んでいる地区を含めての、当主の館の位置ではないかと思います。湯築城というのは、その名の通り「城」であり、その中に当然当主の館を含んでいて、また先日の小野先生のご講演で話題になった政庁も含まれています。その上家臣の居住する場ももっていて、更にそれらを結ぶ幹線道路がめぐっているという、非常にユニークな城だと個人的には考えています。発掘調査で遺構の面からわかってきたのは、この城が大変に「区画」を重視しているということです。それは裏をかえせば、その区画の一つ一つにある一定の性格を持たせていたからであろうと推定できます。ですから、その区画ごとに遺構の検討はもちろんですが、遺物をより詳細に検討し、土器溜りの位置や規模、威信財といえる陶磁器の出土量やその質、などを手がかりに、当主の館を含めた、区画の持つ性格の本質に迫っていきたいと考えています。
 非常にまとまりにくい話になりましたが、整理作業も現在進行中であり、今回はこのようなことでご容赦願えればと思います。

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