「権威の象徴としての湯築城」(講演要旨)その二
   −−出土物から見えてくるもの−−

             国立歴史民俗博物館助教授  小野正敏
 

 この文章は、前号の『ゆづき』17号の小野講演の続きです。講演(1998年11月29日「守る会」のシンポジウムでの講演)の後半部は、出土物に焦点を当てた論述になっています。不鮮明な録音を基に文章化した事、スライド写真を基にした論述を主に文章だけでまとめたものなので、心配です。しかし、湯築城に関する極めて重要な提言となった小野講演を関係者は勿論のこと、多くの人々に広め、湯築城の国史跡指定・継続調査・保存と活用の進展をとの思いで掲載させていただきました。文章中不十分な点がありましたら、その責任は、すべて編集部にあります。

 時間もありませんので、スライドで次の点に入って行きたいと思います。これは、一乗谷の庭園とそれをめぐる世界であります。朝倉氏の館の奥の庭園です。先程の細川管領邸と殆ど同じ世界が作られているのです。屋敷そのものがサイズとか中の空間構成だけでなくて、建物、もっと言えば部屋の構成さえも規範性が強い。つまり、将軍家をモデルとして、屋敷が、そのまま地方の権力者の屋敷としてミニコピーされていることが分かります。 もう一つ例を挙げましょう。これは、広島の吉川元春の屋敷です。全面に大きな石垣が見えていますが、これは正面の石垣です。百メートルちょっとあります。これも正面だけ立派な石垣を作りまして120メートルぐらいのサイズを“これ見よがし”に作っているのです。中に入って見ますと、南側の奥のところに庭園の一部が見えます。ですから、吉川あたりのランクでも同じような規模の館を構え、その中にこのような庭をもっていたことが分かっていただけると思います。
 さて、本来ですと資料を使いながら説明して行くのですが、時間がないので直接話をしたいと思います。先程来、威信財(ステータスシンボル)としまして館の話をして来ました。そこで使われました道具、ここにも同じような規範性というものが出ているということをお話ししたいと思います。守護クラス、或いはそれよりちょっと下クラスぐらいの城館がたくさん掘られるようになりました。そうしますと、そこで持っている陶磁器の一部が非常によく似ているのです。その一部というのは何かと申しますと、先程申しました、威信財(ステータスシンボル)としての陶磁器、つまり、彼らの身分階層を誇示するために使われた陶磁器だったという事です。
 朝倉氏のの場合で見ましょう(スライド)。これは一乗谷から出土したものです。ワンパターンになっているのですけれども、その特徴は、
 (1)中国の白磁の梅瓶(めいぴん)と言われているものです。
 (2)これは酒会壷(しゅかいこ)という青磁の壷です。
 (3)青磁の盤(ばん)という大皿です。
 (4)もう一つが太鼓胴(たいこどう)の水盤みたいなものです。太鼓の胴のような飾りがしてありますので太鼓胴の盤と言うのです。
 (5)これは花生けであります。
 湯築城の例をあげましょう。
 (1)これは、青磁の酒会壷(しゅかいこ)、
 (2)青磁の盤、これも出土しています。ご丁寧なことに、先程、上級武士の屋敷といいましたところでこれが15個体ぐらい出土しているのです。
 (3)これが先程紹介した中国白磁の梅瓶(めいぴん)、
 (4)これが青磁の酒会壷(しゅかいこ)、
 (5)これは、花生けです。
 これはどこのかといいますと、先程出ていました後北条氏の八王子城の御主殿という当主氏輝の館から出土したものです。これが青磁の盤、白磁の梅瓶、これが酒会壷です。つまり、殆どここでも同じセットで出土しているということです。
 これは、武田の榴ケ崎(つつじがさき)の館です。甲斐国武田氏です。これが先程の太鼓胴の盤です。それから、大きな青磁の香炉、そしてこれが酒会壷、ここに牡丹の模様が見えていますが、全くおなじセットが出土しているのです。これは元染付というて染付の酒会壷です。これは牡丹紋で、先程の酒会壷も牡丹のついていましたけれども、戦国大名はみな牡丹が大好きのようです。それから、これはお茶の道具です。中国系のお茶の道具でありまして、茶壷・茶入の瓶・天目茶碗・香炉・などであります。湯築城からも唐物の茶入瓶・中国系の茶入瓶が出土しています。茶壷の破片・天目茶碗なども見つかっています。天目茶碗は5点ほど出土しています。このように湯築城からも、他の戦国大名の遺跡と同じようなものが出土しているのです。次に、これは日本製の3点セットであります。瀬戸で作られた茶壷・茶入れ・天目茶碗です。これは、コピー製品ですので、ちょっとランクが落ちるのです。道具の使い方にも階層といいますか、ランクがそのまま出ているようです。

戦国大名の好んだ宋・元の焼き物
 今見て来ましたような道具がいつ頃の物かといいますと、朝倉氏をはじめ甲斐国の武田氏そして八王子城などによってその年代を見ることができます。八王子城は、1590(天正18)年に豊臣秀吉の攻撃によって落城しています。朝倉氏の一乗谷は、1573(天正元)年に織田信長によって落城しました。ですから、16世紀の後半に燃えた資料ということができます。ところが、先程から見て来ました焼き物は、みんな13世紀とか14世紀、つまり、鎌倉時代の焼き物なのです。戦国大名が特に自分のステータスシンボルとして好んだ焼き物は、基本的に中国の宋や元の時代、鎌倉時代の焼き物なのです。さらにはもっと古く、高麗青磁(12世紀ごろの朝鮮半島の焼き物)、中国の河北省の定窯の白磁(12世紀)も出土しているのです。当時の戦国大名が、16世紀に、これらの焼き物を使っていたということは、400〜500年前の骨董品を使っていたということになります。これは高麗青磁の一つです。これとおなじものとは言えませんが、湯築城の上級武家屋敷で高麗青磁(その破片)が出土しているのです。つまり、湯築城でも、鎌倉時代(中国では宋・元時代)の焼き物が沢山使われていたし、12世紀の高麗青磁も持っていたということがわかるのです。
 新潟県の上越大学に勤めている私の友人がいます。彼は、上杉氏の屋敷(春日山)を掘っています。私は、朝倉氏の一乗谷を掘っていまして、よく交流しているのですが、あるとき、私は彼に、「お前の所は、わしのとこにかなわんね」と言いました。。なぜかなわんのかといいますと、出土する焼き物で、先程の青磁までは一緒なのです。ところが、朝倉氏の一乗谷は唯一さらに上の物を持っているのです。これが高麗青磁なのです。上杉氏の春日山では、今のところ高麗青磁は出ていません。今までは、戦国大名の遺跡の発掘で、高麗青磁は一乗谷ぐらいしか出土していなかったのです。それがこの湯築城から出土しているのです。戦国大名河野氏の持っていた陶磁器の特殊性がわかっていただけるかと思います。
 これが梅瓶と白磁の四耳壷(しじこ)です。どちらも鎌倉時代のものです。これの破片も湯築城から出土しています。ですから、まさにこういう陶磁器の骨董品を共通の要素としてこの時代の人達が持っていた、その様子がこの湯築城にもそのまま確認できると言うことです。

都の権威を模した座敷飾り
 先程、客を迎える時、宴会があると言いました。それをおこなう場所が会所であります。会所と言いますのは、そこで連歌をしたり、花をしたり、香をやったりとそういう区画であります。そこはまた、唐物飾りをしてお客さんをもてなす空間でもあります。本当はこちらの方、つまり、唐物の絵が主役であります。現在の床の間の先祖にあたる押板(おしいた)という施設があるのですが、そこに唐絵が飾られるのです。そして、違棚の所にたくさんの文物が飾られるのです。たとえば天目茶碗が飾られ、そして、青磁の香炉が飾られ、食籠(じきろう=漆を塗り固めて彫刻したもの)・銅の水注が飾られる、といったこういう世界であります。(スライドおわり)
 【図1】の資料の「君台観左右帳記」を見てください。この記録は、足利義政(東山殿)のために1476年頃画かれたもので、“将軍家への座敷飾りはこうあるべきだ”という、教科書のような資料です。先程来、屋敷には規範性が多い、つまり、“座敷はこうあるべきだ”というモデル制があるんだと申し上げたのですが、実は、座敷飾りも全くその通りでありまして、当時、お客さんを迎えたら、こういう空間にはこう言うものを飾りなさいという教科書的扱いをされていたのが、この「君台観左右帳記」であります。だからこそ、先程来見て来ましたように、発掘してみますと、ある一定のランクの大名の屋敷からは陶磁器をはじめとする似たようなものが出土して来るのです。そこに大変強い規範性というものがあったということを指摘できると思います。

「かわらけ」にみる都志向
 さて、もう一つ話を進めたいと思います。それは、「かわらけ」の問題です。
(スライド)
これが「かわらけ」です。これは一乗谷の「かわらけ」です。「かわらけ」は大きく分けて二つの用途があります。一つはこのように真っ黒になっている、つまり、明かりを灯すための器として使われるということです。もう一つは、汚れがついていない、白いきれいなものです。これが先程申しました「ハレ」の器としての用途です。皆さんもご存じでしょうが、あの『枕草子』の中にも出てきます。「きよしというもの“かわらけ”」と。つまり、「かわらけ」は、清浄のシンボルであります。「かわらけ」は素焼きですから一回使うと汚れがしみこんでしまって度々はつかえません。ですから一回使うと捨てます。今日はお年をめした方が多いので思い出していただきたいのですが、私が小さいころ、神様にお正月のお雑煮を上げます。そのときの器に何を使うかというと、漆の皿ではなくて、木地のままの器にいれました。つまり、漆の塗っていない木のお皿であげたのです。私は横浜生まれなので西日本のことは知りませんが、大体こういうやり方です。つまり、漆を塗っているお皿は洗って何回も使うのです。白木の割り箸は一回使うと捨てます。つまり、白木の器、うわぐすりの塗っていない器は基本的に一回使うと捨てるということです。だからこそ、素焼きの「かわらけ」には特別の用途に使われる、ということです。 これが「ハレ」の世界で使われるのですけれども、大きく見ますと二つの作り方があるようです。その一つは、ロクロで作られるのです。ロクロで作りますと、裏側に糸で切った跡が残ります。もう一つの「かわらけ」の作り方がありました。それは、てづくねで作られた「かわらけ」です。ロクロを使わずに手だけでつくられる「かわらけ」です。京都を中心に作られていたものです。それに対して、周辺の地域にロクロで作った「かわらけ」が広がっていたようです。  
 これからお見せする「かわらけ」は、越後国の上杉氏の至徳寺という遺跡から出土したものです。ここは、上杉氏が偉い人を迎える時に迎賓館として使っていた施設(寺)の遺跡です。直江津駅の近くです。約二百メートル四方の堀と土塀で囲まれた遺跡です。そこで宴会が持たれた迎賓館としての館です。そこから出土した陶磁器を見てみますと、特に「かわらけ」、15世紀の後半の「かわらけ」はロクロで作られていたということが分かります。つまり、越後国の上杉氏の至徳寺の「かわらけ」は京都方式ではなく、ロクロでつくったものだったのです。先程来いっていますように、屋敷や道具を将軍さんと同じようなものを使いたい、都と同じものを権威の象徴として使いたい、という意思い大変強い訳ですから、当然のことながら、「かわらけ」だって、田舎の「かわらけ」より京都風の「かわらけ」がいいに決まっています。そしてそれがもう一つのステータスシンボルになるのです。そのために上杉氏はどうしたか。頑張りました。角がたっていた(ロクロでつくり糸で切った跡がある)んじゃあロクロで作ったのが丸見えですので、角っこだけヘラで削るのです。考え方が姑息ですね。つまり、角をとった京都風をまねした「かわらけ」が出て来るのです。ところが、上杉氏が段々権力を強くして来ます。というよりも本来の上杉氏を討って、その下にいました長尾氏が権力をとります。皆さんご存じの上杉謙信は、上杉氏の家臣であった長尾氏なのです。上杉謙信は権力をとって何をしたかと申しますと、古代以来の府中から春日山に拠点を移すのです。それによって新しい主人としての立場を明確にしようとします。春日山は山城なので防衛上の利点もあったと思われます。その春日山から出土した「かわらけ」がこれです。手で撫でた跡が明瞭に出ています。裏側を見てください。まあるくなっていて、手でべたべたやった跡がそのままついています。つまり、この段階では、京都と同じ技術で作った手づくねの「かわらけ」に変わっているということです。上杉氏が自分の権力を誇示するようになるにしたがって、「かわらけ」そのものも京都風のものに変わっていったということです。そしてそのあと、慶長年間になりまして、上杉氏は移封されてしまいます。米沢の方へ追い出されてしまいます。上杉氏の後にやって来たのが堀氏であります。そうしますと、「かわらけ」は、再びロクロ「かわらけ」の汚いものに変わっているのです。“どうしてくれるんだ”と言いたくなりますが、もう良いのですね、この段階では。といいますのは、たんなる「かわらけ」が何で“手づくね”の「かわらけ」でなくてはならなかったのか、といいますと、その後ろには足利将軍という都の権威がくっついていたからこそ意味があったのです。その将軍がこけてしまってなくなっているから今更将軍様と同じ「かわらけ」を真似する必要はなくなっているのです。つまり、文化的な後ろ盾がないただの「かわらけ」になってしまったということを示しているのです。「かわらけ」ひとつが当時の権力者のステータスを特徴的に示す道具なのだということが分かるのです。
 湯築城の「かわらけ」はどうか。残念なことに瀬戸内から西の方では、相変わらず、ロクロ「かわらけ」だったようです。ただ、湯築城にも大変おもしろい資料があるのです。湯築城の「かわらけ」を見せていただきますと、底の部分を削って糸切りの跡を削ったものがあるのです。だから、かなり中央の「かわらけ」というものを意識したそういう「かわらけ」が作られていた、と考えられます。そういう意味で見ますと、陶磁器だけでなくて非常に中央志向の強い出土物を見ることができるように思います。

もう一つの武器
 時間になっていました。そろそろ、話をまとめてみたいと思います。
 いま見ましたような変化というのは、先程話題にしました山口の大内氏の館でも似たような変化があるのです。山口でももともとロクロ制の「かわらけ」を使っていましたが、ある時、京都から将軍さんになりたいって流れて来た者がいまして、それを後ろ盾にしまして、大内義興が京都へ上っていきます。そして、その後、将軍になるわけなのですが、大内義興が山口へ戻ってまいります。そして、突然、大内氏の館の周辺でロクロ「かわらけ」が姿を消し、手びねりの「かわらけ」が出て来るのです。これは、調査した古賀さんの報告で指摘されていることなのです。どうもその時に、大内氏の館に庭が造られたり、京都の祭りが導入されると言う具合で、山口の町が小京都よばれるようになる実態が進んだと思われます。ですから、屋敷の空間だとか、或いは使う道具類だとかに、大変強く権威というものが反映されているということがおわかりいただけると思います。私は、それを“もう一つの武器”だと考えています。戦国大名といいますと、槍や鉄砲ばかりで戦っていた、そんなことが考えられがちですが、中央に繋がる権威は、“もう一つの武器”だったということが分かるのです。
 先程、朝倉氏の館に室町幕府の最後の将軍となった足利義昭がやって来たときに『お成りの記』というのがあるのですが、それを見てみますと、こんなふうに書かれています。「貴賎群集して、天長地久の祈り請う、諸民それを重ねて千秋万歳の楽しみに誇るものなり」と書かれているのです。天長地久の祈りを乞うと言うのですから、この世界が平和で長持ちしますように、つまり、「君が代」と同じですね。貴方の世が長く続きますようにとそういう晴れやかなことが謳われているのです。そして、この記録には、細かい記録が書かれていまして、最後にこんなふうに書かれているのです。
 「誠にこれ四夷治めざるに治まり、衆民服さざるに服す、恐らくは花山に馬を放ち桃林に牛を繋ぎし、世にもこれ超えて安寧なるものなり。」
おおげさな文章ですが、要するに四夷を治めざるに治まりと言うのですから、特に治めようとしなくても、それが平和に治まって天下が泰平に成っていくんだと、花の山に馬を放ったり、桃がなっている林に牛を繋いでも食われることがないと、そのくらい平和な世界が桃源境のように出現するんだ、こういう言い方ですね。こういった“お成り”とかそういう「ハレ」の世界の持っていた意味、それがまさにこの文章に表現されていると思うわけです。彼らが使った屋敷・建物・道具、それが実は、その頂点に京都の将軍さんを置きまして、それに権威付けられた、そういう世界がまさにそこに実現している、それこそが、地方の権力者には、“もう一つの武器”つまり、その対立者を押さえて行く世界であったのだと言えます。
 もう一つ、こうした屋敷に特徴的な事があります。今、全国を調査していまして、こういう方形の館、或いは守護クラスの館と言われているような庭の大きい遺跡を調べてみますともう一つの特徴があるのです。都からの文化人・連歌師など、そういう連中が来る所、つまり、地方の権力者の館がそのまま中央と結び付いている。どんな形で結び付いているかと申しますと、文化を媒介にして結び付く。それをまた地方から発信する空間だったんだ、ということが分かるのです。
 一乗谷は、たくさんの公家や文化人が来たので有名ですが、先程の上杉氏・能登国の畠山氏・北信濃の高梨館などもそうです。高梨館は90メートルの間口を持っており、奥の方には庭園を持っている、この地域では珍しい館です。ここにも連歌師が来ているようです。宗長とかが来ているようです。連歌師宗長が東北の方から廻ってこの高梨の館に入って来て(恐らく甲斐の武田氏の館に逗留してその後ここ(高梨館)に来たものと思われます)います。その後、彼は松本を経て美濃国を経て、何と一乗谷の朝倉氏の館に移動しているのです。つまり、地方の文化的なサロン、こういう権力者の屋敷が、そのまま地方の文化ネットワークのサロンになっていて、そこを連歌師が巡りながら、そこに少しずつ逗留して連歌の会を開き、そして、世間の情報を交換し、中央の文化を持ち込み、政治の情報を渡し、そしてまた新しい情報を持って去って行く、そういう世界があったのです。ですから、先程、“もう一つの武器”と申しましたのは、単なる文化的な意味合いだけでなく、政治の面でも大変大きな武器になっていたということが言えるのです。

湯築城跡の価値と今後
 この湯築城の場合に、これまでの発掘調査でみますと、館の問題、そして、そこにありました「ハレ」の空間の在り方、出土した陶磁器をはじめ「かわらけ」の問題など、なみなみならぬ世界を覗かせています。ただ、最後に申し上げたいのですが、あの一乗谷は30年かかってあそこにたどり着いた遺跡であります。今日も天気が良いので、私の古い仲間たちが発掘していると思います。しかも30年ほって遺跡全体の2〜3割程度です。そのくらいで、今紹介したような成果が出て来ているということです。私は、今回、湯築城の成果を見せていただきまして感じたことが幾つかあるのですが、はっきり言って、何にも分かってないな、ということです。これは、調査者の人達に言っているのではないのですよ。湯築城という全体のものを見たときに、湯築城そのものがまだ何も分かっていない、そして、恐らく、河野氏についてもあまり分かっていないらしい、ということをなんとなく感じてしまった訳です。確かに発掘された遺構は一級品なのです。私も方々の遺跡を見て来ていますが、あれだけ残りが良く、それが何枚も一カ所に重なって屋敷群が出て来ることは、めったにありません。ですから、大変素晴らしい遺跡である事には変わりないのですが、湯築城全体の事を考えて行こうと思ったときに、まだまだ情報が足りません。何よりも今後の調査が必要だろうと思う訳です。先程、私が冒頭に多分グラウンドの所がこんなふうになっていて館の「ハレ」の世界がここにこんなふうにあるのではないか、というふうに推測を申し上げました。でも、実は、グラウンドの所は、小さなトレンチが何本か入っただけで、あそこの実態というのはこれから調査しなけれはわからない世界なのです。そういう意味で、これまでの掘った部分が残りが良い、だからあれを残してあそこを整理すれば良い、というものではなくて、湯築城の全体が分からないで、あそこの性格付ができないで、何を整理して何を市民に渡そうとしているのか。残せば良いというものではないのです。そこからこんなことが分かりましたというその中身がまだ分かっていないではないか、と私は言いたいのです。一乗谷のように30年も50年もかけて掘れ、とはいいませんが、ここの遺跡は、私に言わせてもらえば、たかが館一つです。掘る気になったら、あと5年か10年で全部掘れます。掘ったら良いのです。それによってむしろ湯築城の成果というものは、本当の意味で日本に誇れる一番すごい遺跡になっていくだろう、そんなふうに信じて疑いないのです。ご静聴ありがとうございました。

道後湯築城跡を守る県民の会メニューへ


inserted by FC2 system