湯 築 城 の 発 掘 調 査 成 果 に つ い て

        愛媛県埋蔵文化財調査センター 中野 良一

はじめに
 昭和六三年度から平成十年度まで継続された(平成二年度は実施していない。)発掘調査は大きく分けて、(1)日本庭園計画に添った緊急発掘、(2)旧動物園区内に残存する遺構の面的な発掘(学術的調査)、(3)旧動物園区以外の区域の遺構残存状況を調べる試掘調査、(4)整備計画に関連する箇所の追加調査という四つの方向性をもって実施されてきました。
 私は平成三年から実施された(2)の調査から、湯築城の発掘に従事してきました。 (1)の調査では、遺構や遺物の残存状況が予想以上に良好であることが明らかとなり、(2)の調査では、その残りの良い遺構がどのような性格を有していたのかが検討できるようになりました。
 ここでは、特に検出された遺構に注目して、面的に調査できた旧動物園区が、その昔、どのように利用されていたのかを再確認してみようと思います。なお、旧動物園区の西側半分から検出された個々の遺構の詳細については、既刊報告書を参照して下さい。

基本土層
 遺構把握の前提となるのが、城内に堆積している土層の観察です。我々はその観察結果から、少なくとも四つの段階で城の遺構が変遷しているとみています。そして最も鍵となるのが広範囲に確認された第三層の焼土や炭の層(この層は広範囲に形成されていることから、戦乱によってできたものと考え、出土遺物の年代観から見て16世紀半ば頃と推定しています。)で、この層の下に二つの段階(1・2段階)、上に二つの段階(3・4段階)が存在しています。
 ちなみに1段階の遺構は、城に外堀を巡らせて再整備された時のもので、文献からみて1535年頃が考えられ、現在のところ遺物の年代観からみても、それを否定するものではありません。また、最も上面で検出される4段階の遺構は、廃城段階とみています。
 発掘調査は、旧動物園区の東半分は第4段階止まり、西側半分は基本的に第2段階まで行われています。

防御的構造
 湯築城の特徴の一つとして、中央の丘陵部を取り囲むように造られた二重の堀(外堀・内堀)と二重の土塁(外堀土塁・内堀土塁)があげられます。そのなかで内堀土塁は、発掘によって初めてその存在が確認できました。旧動物園区では内堀に沿って巡っており、大手側ではこの土塁が大きく張出して、外堀土塁との間には道路と排水溝しか存在しない最も狭い箇所がありました。これはすなわち、大手から入ってすぐ左に折れ、旧動物園区の方に行くためにはここを必ず通過しないと行けないわけで、多くの人が一度に通過できるだけの幅をもたせない意図があったものと理解しています。また、外堀土塁に関しては、東半分が特に高く、西半分は低くなっていますが、これは後に述べるエリア区分と密接な関連をもっていると考えられます。
 一方、堀に関しては特に外堀は十分な調査が実施されていないため、堀の幅や深さ、断面の形状など不明と言わざるを得ません。内堀に関しては、部分的なトレンチ調査を実施した結果、「箱堀」に近い形態で堀底からは多量の遺物が出土しています。
 堀や土塁とともに城内を巡っている遺構に、道路とそれに取り付いた排水溝があります。4段階におけるこの遺構は、旧動物園区内で最低5から6箇所について「折れ」が認められ、その箇所については道路幅が極端に狭くなるように意図されています。

機能分割
 もう一つの大きな特徴として、内・外土塁の間の空間利用が挙げられます。旧動物園区は、西から「家臣団居住区」、「庭園区」、「上級武士居住区」という名称で区画の性格を表現しています。
 「家臣団居住区」の2段階における個々の屋敷は、土塀や石列により隣家と区画されており、最低8区画が存在しています。また、礎石建物の柱間は197cm(6尺5寸)を基本としており、4段階の建物に比べて使用寸法の規則性が極めて高く、ほぼ同時期に建てられた可能性が考えられます。このことから逆に4段階における各建物は、柱間に規則性が認められず、建てられた時期や用途に差がある可能性が考えられ、4段階では単純に「家臣団居住区」と言えるかどうか検討を要する課題です。
 「庭園区」は「上級武士居住区」と今のところ分割していますが、「上級武士居住区」に包含する考え方も可能です。この地区の最大の特徴は、細かな区画が存在せず広い空間として利用されており、宴会などに使用した土師器を廃棄した坑が検出されていることにあります。そして、この部分だけが高い外堀土塁に守られているのです。端的に言えば内部を容易に見られたくない、また、より守らなければならないために、土塁を高くしていると考えています。守るのもや見られたくないものは何であるのか、この地区に関しては現在、遺構・遺物の両面から詳細な検討を加えながら報告書を作成していますので、今のところは「上級武士」という言葉で想像して下さい。

試掘調査で見えたこと
 旧動物園区以外の区域を試掘した結果、どのような遺構がみつかり、城全体としてどに利用されていたと推定できるのかを簡単にまとめてみます。
 城の正門の大手にあたる現在のグランド側では、大手から丘陵裾に延びた道路が確認され、その両サイドには礎石建物が存在しています。グランド全面に建物が展開する様相は認められませんが、遺構は焼土に覆われているようです。礎石の柱間も6尺5寸があてはまることから、2段階の遺構の遺存が良好であると推定できます。また、児童遊具がある箇所では、土師器皿の廃棄された坑が検出され、近辺に宴会や儀礼を司る建物の存在が窺えます。さらに、内堀も存在していることが明らかになりました。
 丘陵部では、中壇の北端に鍛冶遺構が集中しており、恐らく建物を建てるための釘などを製作し、道具を修理していたものと思われます。最頂部の北下と西下の郭には建物が存在しています。また、中壇の南端では堀切も確認されました。さらに西側斜面部は平坦な郭が取付いていることもわかりました。
 城の裏門の搦手にあたる電車通り側では、「家臣団居住区」から連続する道路や内堀土塁を確認しました。ここで最大の成果は搦手門に関連する礎石が検出され、門の規模や構造が推定可能になったということです。詳細は現在類例等にあたり検討中です。

積み残された課題
 発掘をすれば色々な事実を目の当りにして、当時の生活に思いを馳せることができる反面、一様でない遺跡の複雑さに戸惑い頭を悩ますことも少なくないものです。旧動物園区の調査はまさしくこのような気持ちの繰り返しでありました。
 緊急調査段階で朧げながら見えてきた「居住区」やその他の地区の姿は、さらに面的に広範な調査を実施することによって、機能分割の行なわれた区画としての姿をより明確に表してきました。しかし、「家臣」とは「上級武士」とはいったいどのような実体なのか、根本的な課題が残されています。
 試掘調査によって大手近くから出土した瓦の紋様が、たまたま土佐国の岡豊城、中村城のそれと完全に一致したことからみえる長宗我部元親の姿。しかし、その瓦はどんな構造や規模の建物に葺かれていたのだろうか。歴史の答えを出すには、まだまだ十分ではありません。

おわりに
 我々発掘調査に従事する調査員には、純粋な研究者として、あるいは行政発掘に携わる者としての二つの立場があります。ここでは一研究者として、湯築城の今後をどのように考えていけば良いのか私見を述べて終わりにしたいと思います。
 湯築城が『区画』というものを大切に設計されていることは、すでに明らかなこととして大勢の認知を得ています。しかし、「家臣団居住区」の北端と大手の区画、さらにそれ以外の地区にどのような区画が存在するかについては明確ではありません。学術的調査として再開されていながら、遺跡のもつ中身を考えた調査になっていなかったことは、最後まで面的な調査対象範囲が旧動物園区に限られていたことをみても明らかです。しかし、それでもこの遺跡は国指定史跡としての価値が十分にあると評価されています。
 今後については、全面発掘を要望する声、部分的にでも継続した調査を望む声、現状維持とし将来に託す声など様々な意見を耳にします。いずれかの結論をだすにあたって最も大切なことは、遺跡の中身というものを吟味し、その価値にふさわしい方針を出すことだ思います。その点、湯築城のもっているであろう情報は、全国に積極的に発信すべきものでしょう。私は先に述べた『区画』のもつ重要性からも今の段階は、調査目的を絞り込んだ部分的継続が妥当だと考えています。
 湯築城が廃城後、部分的な損傷はあるものの幾多の開発の危機を脱し、今日、伊予の中世政治の中心地としての姿を表した以上、もっと知りたいという感情はごく自然なものでしょう。その意味においても現状維持もしくは、もうこれで良いとする考えは、不自然さが感じられ、大いなる後退に思えます。
 ともあれ、もう一方の行政発掘に携わる調査員の立場で重要なのは、方針の最終判断に至る過程で、いくつかの積極的な選択肢を提示することだと考えています。

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