二神氏の研究と結集を全国に呼びかけて

          二神 重則(道後湯築城跡を守る県民の会運営委員)

「二神氏の概略」
  二神氏の出自は現在の山口県豊浦郡豊田町に居住していた藤原隆家を祖とする豊田氏であると言われています。豊田藤十郎種家の時に、二神氏系図によれば跡目争いのため、種家は防予諸島中央に位置する二神島に移り、二神を称し、二神種家と呼ぶようになった。その時期ははっきりしていませんが、室町時代初期であろうと推定されています。
  南北朝時代が終わり、宮方の雄「忽那氏」の力が衰えると、忽那(中島)諸島周辺にそれに変わる勢力として二神氏が台頭しました。室町時代末期は風早地方(北条市と温泉郡島嶼部)に勢力を拡大して、河野氏の家臣団に加わっています。秀吉の四国侵攻時には河野氏側として宅並城・雄甲・雌甲城・高穴城を守備したと記録されています、対して小早川側の来島氏の配下として侵攻軍に加わった二神氏も居たと予想され、敵味方になったことが想像されます。
  その後、秀吉の全国支配が始まり「海賊禁止令」など、様々な経過をたどり二神の人々は各地に分散していったと思われます。松山藩士や毛利藩士になった者、城辺町や高知県大月町に移った人々、来島康親と共に豊後森藩(大分県玖珠)に同行した人達が居られます。現在、二神姓の人は関東以北にほとんど居られません、約7割の方が愛媛県に住まわれていて、中予の松山市・北条市・中島町を中心に南宇和郡の城辺町・一本松町に多く見られます。そしてその分布はその地方に於いても偏在しています。

「史資料に見る「河野氏」と「二神氏」の接点。」
  各種史資料により二神氏と河野氏の関係を見てみました、二神氏が河野氏の重要な家臣として働いた時代があり、河野家の内紛と村上(来島)氏の織田信長への接近があった頃には、二神氏も二つに別れて争っている様子が分かります。河野氏と同様に身内同士の争いが二神氏の勢力を削いだのではないかと思います。
  1364年(正平19) 河野通朝が細川氏の攻撃を受けて世田山城で戦死し、河野通堯は九州に逃れた際二神種直はその部下となり同行した。
  1367年(正平22) 通堯が細川氏を追い出し再び伊予の支配権を取り戻した折りに、現在の北条布粟井付近の領有を許され、宅並城を築き城主となった。
  二神系図によりますと、二神種が1465年(寛正6)遺後の城(湯築城?)で戦死した。なお、この戦いの事を調べていますが、何の戦いなのか不明です。
  1479年(文明11) 阿波の細川義春の伊予侵入があり、二神家直は宅並城の防衛をした。その武勲により河野教通により粟井郡(北条市)安岡名・友兼名の地を給与されている。
  1572年(元亀3)  毛利の軍が中予地方を襲った、二神氏は重見・高田氏と共に恵良山城を守ったが落とされた。その後河野氏の反撃により毛利氏の松前侵入軍を撃退し、二神氏は忽那・佐伯氏と共に恵良山城を奪還し、毛利氏は敗送した。
  1572年(元亀3)  阿波の三好氏が東・中予に侵入。二神通範は大野・土居・重見氏らと転戦し三好氏を撃退した。
  1573年(天正1)  喜多郡の大野氏は長曽我部氏に通じ兵を挙げた、二神通範は討伐軍として地蔵嶽城(現大洲城)を落とした。河野氏は毛利氏に援軍を請うため通範を派遣した。
  1579年(天正7)  村上(来島)通総は鹿島城(北条市)城代の二神豊前守と結び反河野氏の兵を挙げるが失敗、豊前守は来島城に逃げた。
  1582年(天正10) 毛利氏は村上(来島)通総の攻撃のため、大島・中島を攻撃した。二神重成は奮戦して毛利氏を撃退した。
  1585年(天正13) 秀吉の命を受けた小早川隆景は河野氏打倒のために伊予に侵入、二神通範は高穴城にて防戦したが陥落。
  1587年(天正15) 河野通直は竹原にて病死。二神氏はその菩提を弔うために法要を続ける。

「その他氏族との関係」
  来島氏(村上・久留島)とは、北条市の一心庵には、来島氏と得居氏と共に二神氏の墓がある様に深い関係にあります。河野氏滅亡前後、二神氏の一部は来島氏や得居氏の旗下にあって河野氏側に付いた二神氏と同族で争っていた。秀吉の四国平定が終わると、来島通総は風早に所領を受け、その折り配下にあった二神氏は家臣に組み入れられた。1601年(慶長6)豊後森(大分県玖珠)に来島康親は入封した。その折り来島の家臣として従った二神氏は片山二神氏の分流であろうと言われている。
  豊田氏は出身地の山口県ではその足跡が殆ど無くなっているが、旧風早郡の北条市や中島町の島嶼部に於いては、豊田氏との関係は続いていました。

「二神氏の系譜を研究するための準備会」
  会開設のきっかけとなったのは、1996年夏に「道後湯築城を守る県民の会」のホームページを作成しました、その時に会員の方から「二神氏は河野氏とは深い関係があった、二神氏のホームページを作ってはどうか」と言われまして、景浦勉氏による「二神文書」「室町時代における二神氏の活躍」 、網野善彦氏による「伊予国二神島をめぐって」、竹野孝一郎氏による「大分県府内町林四郎氏所蔵二神文書及び二神系図について」、「愛媛県史」・「中島町史」・「北条市史」・「城辺町史」等を参考に、1997年始め「二神氏」のページを立ち上げました。
  そのページに対する反響により、昨年(1998年)数人の有志が集まり会結成の準備と調査を始めました。その結果今年(1999年)の2月14日に河野氏とも関係の深い「北条市ふるさと館」にて、全国の二神さん54名を集めて「二神氏の系譜を研究するための準備会」の発足となりました。
  会の目的は、「科学的な立場を持って二神氏の系譜の流れの解明をする」を基本として、それぞれの二神さんの持たれている史資料を集中して研究し保存し、史跡の保存や出来れば資料館の建設、本の出版などを計画しています。この事により先祖の生き方を学び、これから21世紀の我々の方向を示す一助になるのではないかと考えています。会員の人達には、年数回それまでの発見や出来事やお知らせを記載したニュース発行と、二神氏に関係の深い地での研究会・懇親会を開きます。
  今までの会の動きでは、2月に開かれた北条での発会式には、久留島氏・得居氏の研究家である法政大学の福川先生の「伊予の国と二神氏」の講演がありました。5月末には二神発祥の地「二神島」で、約70名の人に集まって頂きまして、神奈川大学日本常民文化研究所の関口博巨氏による講演と懇親会を開きました。なお、次回の研究会は9月に愛媛県南宇和郡城辺町で開く予定にしています。現在までに準備会のニュースは第5まで発行し会員に対し、発見やお知らせ等を掲載しています。
  会への連絡連絡先
  二神 浩三  (準備会会長)
    松山市樽味2−5−13/089-947-2952
  二神 英臣  (事務局長)
    北条市光洋台7−34/089-994-2542
  二神 重則  (広報担当)
    松山市平井町甲2169−43/089-976-5179
  インターネット
    「二神氏」ホームページ:http://www.dokidoki.ne.jp/home2/futagami/
     メールアドレス     :futagami@dokidoki.ne.jp

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