県文化財保護課の文化財行政を問う

 二月始め、県の文化財保護課を訪問した。用件は、県埋蔵文化財調査センターによる道後湯築城跡の調査報告書の公表とその提供をもとめる事だった。同報告書は、それまで私達が得ていた情報で、既に昨年六月、印刷所は製品を県の方へ収めていた、ということで、半年間も公表をしていなかったのである(守る会の機関紙「ゆづき」十七号で掲載)。情報公開を約束の加戸県政のスタートということもあっての訪問であった。
 「道後湯築城跡を守る県民の会」(略称「守る会」)として名刺を出しての訪問に、文化財保護課の方は一瞬戸惑いも見せたが、丁寧に応対していただいた。「守る会の皆さんには日頃お世話になっております」、「私達は、全国でも第一級の文化財に対して、それにふさわしい扱いをお願いしているものです」など、初歩的だが、文化財保護運動にかかわる者と文化財行政との対話がフランクにできるようになれば、との思い(全国では当たり前のこと)であった。
 しかし、一つ、唖然とした事があった。私は、その場でそれを指摘したかったが、せっかくの対話を壊すべきでないとの配慮から黙っていたのだが、「それははっきり言うべきだ」という「守る会」の仲間の助言で、敢えて指摘することにした。それは、文化財保護課の課長さんの発言である。「湯築城跡も大切ですが、どうも中世の遺跡は迫力がないですね」と。“松山城・宇和島城のように天守閣を持つ近世の城郭と比較して中世城郭(守護の館との新説もある)としての湯築城は見栄えがしない”と言いたいことが見え見えである。いやしくも県の文化財行政の責任者の発言として相応しくないと言わざるを得ない。
 中世史を文献記録だけでなく、発掘など考古学的な手法で解明することが本格化したのは、せいぜいここ二〇〜三〇年前からの事である。特に最近は、ハイテクも導入され、極めて微細な出土物からも中世の生活が見えて来るような研究も進んでいる。“見栄え”で文化財の価値をみるような文化財観は時代錯誤も甚だしいと言わざるを得ない。
 湯築城跡は、守護の城郭もしくは館が殆ど全面的に残されている全国でも数少ない史跡であることは、第一線の研究者が指摘しているものであり、速やかに国指定の史跡とすべきである。新しい県政もその方向で進もうとされていることに敬意を表すると共に、文化財行政たばねる立場の方々は、新しい文化財研究の動向を常に学習して戴きたいと願うものである。【古谷直康(「守る会」運営委員・機関紙「ゆづき」編集担当】
 

道後湯築城跡を守る県民の会メニューへ
inserted by FC2 system