道後湯築城跡の発掘調査の現地説明会参加報告

現地説明会開催場所:道後湯築城跡(道後公園)
       開催日時:平成11年(1999年)2月13日(土) 13:00〜
       説明者 :(財)埋蔵文化調査センター
 

(1) 総合説明
 
 今日の説明会は、センセーショナルな新聞報道がきいたのか、今までにない盛況でした。過去の説明会はせいぜい2〜300人でしたが、今回の参加者は600人以上であることは確実で、更に遅れて来た人も相当数いたようです。

 そのため、当初は参加者を幾つかの班に分け、それぞれに説明員がついて案内する筈だったのを、5つの区域をそれぞれ一人の説明員が説明を担当し、説明員はそれぞれの担当区域で20分毎に説明を繰り返し行なうことに、説明方法が急遽変更されました。

 各区域の説明に先立ち、最初に埋蔵文化財調査センターの大山課長から、河野氏の歴史について概略説明があり、その過程で南北朝の争乱の間に湯築城が築かれたこと、16世紀前半に外堀を掘り、その土で外側土塁が築かれたこと、最後は秀吉から四国攻めの命を受けた小早川に恐らくは無血開城したであろうこと等の説明がありました。 (右の写真は大山課長の説明に聞き入る参加者。拡大写真もあります。)

 小早川隆景が四国攻めの際に出した感状が相当数残っていますが、湯築城攻めの感状が見当たらないので、河野氏は小早川氏と姻戚関係にあったこともあり、戦わずに城を明け渡したのだろうと言うことでした。

 湯築城は始め山城として築かれ、その範囲は内堀の内側であり、外堀と内堀の間は外堀を掘った時に拡張された区域であること、その区域には焼土層を挟んで4段階にわたる層が認められ、出土品その他から見て、最下層は1535年頃、最上層は1585年頃と見られ、文献と一致するという説明がありました。

 今回の発掘で特筆すべき点は搦め手門に関して新たな発見があり、その結果、湯築城は間違いなく城であり、戦うための施設であったことが確認されたと強調していました。

 即ち、搦め手門に雨だれを受ける溝が見つかったことから、屋根を有する門であったことが判明し、搦め手門は頑丈な構造であったこと、次に、搦め手門に接する外側土塁はこの接触部分が最も幅が広いこと、今一つ、中段の一番南側、つまり最上段裾の所に堀切が発見され、ここまで攻め込まれてもなお抵抗する構造になっていたことをあげていました。

 湯築城の遺構・遺物の保存状態は非常に良好で、このようにいろいろな発見がありましたが、全体像は依然未解明であり、発掘がこれで終わりと思うと深い感慨があると結んでいらっしゃいました。

 10年間にわたって発掘に携わった方3人と、途中から加わった2人の方を紹介し、このような形でしかその労に報いることが出来ないのは残念だと述べた後、残りの部分も50人も動員すればあと2年もあれば終わるのに、埋蔵文化調査センターは財団法人で、受託した調査をする組織であり、予算がつかないと何もできないと無念さを隠し切れない様子でした。

 なお、大山課長は、新聞報道は誤りがあるとして、「私が県当局と言ったのは、都市整備課を指したものではない。」と、前日の新聞報道の誤りを訂正していらっしゃいました。

 話は跳びますが、この5人の方が、湯築城に関しては最も詳しい方達で、4月4日にはそのお一人が講演をして下さいます。
 

(2) 各遺構別の説明

 現場の説明は5つに別れて行われました。その内私が興味を感じた3つについて報告します。

【内堀 内側郭に駆け込むため内堀をわたる場所?と思しき遺構】
 
 湯築城の南側、内堀と外堀の間に屋敷の遺構がかたまってっています。そこには下級武士団の住居群の跡と、上級武士の館跡(過日のシンポで小野先生が守護館ではないかと指摘した場所)があります。その下級武士団の住居群と本丸のある丘との間に、内堀が狭い箇所(写真の中央部)があります。内堀の幅は12m弱ですが、その箇所だけ6m程しかありません。しかも、丘陵側には掘に幾らか突き出た部分があり、調査の結果、それは人為的な盛土(堀の狭い部分の左側)で突き固めてありました。 (拡大写真
 

 何のためにこのようなものを造ったのかは推測するしかありませんが、そこに住む武士達が本丸あるいは内堀の中の郭に駆け込むための通り道として作られたものではないかとのことでした。

 余談ですが、内堀の水は今でも湧水により供給されているそうです。松山はこの冬は雨不足ですが、内堀の水が涸れる気配はありません。
 
 

【搦め手門 頑丈な構造、櫓門であった可能性】
 
 過日のシンポジウムの前日に案内して貰った時には、遺構の状況から見て搦め手門は強固な防御力を持つ門とは思われないという説明でした。その時は搦め手門の半分くらいしか発掘出来ていませんでしたが、その後更に搦め手門の発掘を続けた結果、雨落ち溝が検出され、屋根付きの門であったことが判明しました。 右図の2本の白い線の間がその溝です。(拡大写真

 搦め手門の辺りの土塁は他の部分よりも幅が広く、しかも家臣段居住区の土塀基礎が60cmであるのに対し、この辺りは90cmと広く、土塁も搦め手門近傍は一番堅牢に作られていたようです。

 この状況から搦め手門は櫓門であった可能性があると考えられるに至りました。

 この辺りは近年の排水溝工事などで遺構の一部が撹乱を受けており、門の礎石も内側の2個は確認されましたが、外側は発見出来ませんでした。雨落ち溝も片側しか見当たらず、反対側は撹乱を受けていて判りません。その点でなおデータが不足しますが、従来考えられていたようなちゃちな構造ではないことは間違い無いでしょう。
 

【本丸下の郭と堀切 郭は最古の礎石建物か? 堀切は最後の抵抗手段?】
 
 本丸のあったと思われる最上段(今、展望台のある最高部)と中段との間に踊り場がありますが、そこには焼土層を挟んで2つの層が検出されています。

 この焼土層が家臣団住居跡の焼土層と年代が同じか違うのか、遂に明確になりませんでした。

 上の層からは15世紀の遺物が相当数出土していますが、只一点だけ16世紀の遺物が見つかっています。この16世紀の遺物をどう見るべきか結論が出ず、従って年代決定に至らなかったとのことでした。

 この区域は門があったと見られていましたが、今回の発掘で上の層、下の層から発見された礎石から、門ではなく、建物があったと確認されました。礎石の間隔から基準寸法が195cmであったことが判明しています。各部の寸法が195cm、その倍、あるいは半分となっているのだそうです。

 この内、下の層の建物は、ひょっとしたら最古の礎石建物の可能性があるとのことでした。(私の聞き違え?)

 下の層の建物は地形に合わせた作り方、上の層の建物は若干大きく、各面が東西南北に向いています。 写真ではちょっと判り難いかもしれませんが、赤色のテープが上の層の建物跡、緑色のテープが下の層の建物跡です。(拡大写真

 2つの層の下には土層はなく、岩盤ですが、そこにはピットがあり、それは湯築城築城時の建物の遺構と見られています。

 ここから下って中段に下りた所に、尾根を横切る堀切が発見されました。幅約4m、深さ約2mです。残念ながら遺物は全く無く、年代を決定することが出来ませんでした。

 これはたとえ中段まで攻め込まれた場合にも、なお抵抗するための構造と考えられます。

 余談ですが、この説明を聞いて居たとき、3人連れの中年の御婦人がいろいろと質問し、最後に「それ程守りを固めていたのなら、この上の段は一番偉い人が居たところに違いない。上の段ももっと調べてよ。」と係員に食い下がっていました。余程いにしえのロマンに浸っていたのでしょう。最上段は土層はごく薄く、すぐ岩盤で、ピット以外の遺構は残念ながら検出されていないそうです。
 
 最後に、右の写真は遺物を説明する係員と展示に見入る参加者です。右から2番目の緑のジャンパーの女性は、10年間発掘に携わって来られた3人の中のお一人です。ご苦労様でした。(拡大写真
 
 これで報告を終わりますが、大山課長が今回の発見から、湯築城はやはり戦うための城であったと強調したのは、これが守護館・政庁であるとの見解を否定した発言と感じました。勿論河野館ないしは守護館があったことを否定する意味ではありません。河野館があったことは間違いありませんし、それが後には守護館になり、政庁もあったかも知れませんが、それが主目的ではなく、主目的はあくまで戦うための施設としての城であり、その中に守護館や政庁を含むという意味です。

 拙い報告に最後までお付き合い戴き、有り難うございました。ご感想やご意見を談話室に頂戴できれば嬉しく存じます。或いは当HPの「メール」をクリックしてメールで送って戴いても結構です。

 なお、本報告はniftyの城郭フォーラム2番会議室にもアップ致しております。

  文  :道後湯築城跡を守る県民の会  運営委員(インターネット担当) 土居 敬之介
  写真: 同                  運営委員              渡部 一義

  参考:搦め手門遺構の写真掲載のHP

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