道後湯築城跡を守る県民の会2001年度総会報告
2001年(平成13年)5月3日
運営委員 土居 敬之介

 
 去る4月21日(土)に、「道後湯築城跡を守る県民の会」の2001年度総会が開催されました。
 今回の総会は、湯築城跡を国史跡として指定するよう申請するための測量を開始するとの報道があった直後に当たり、一方では史実に基づいた公園整備工事が来年4月オープンを目指して進行中で、その運営等について道後公園を管轄する都市整備課から協力して貰えないかと、非公式ではありますが、当方の意向を打診して来ていると言う状況下で開催されました。
 このような公園の運営は、今までですと○○運営委員会と言うような名前の組織を作り、そこには××協会会長だとか、△△組合理事長など、お偉方が名前を連ね、実はこれを隠れみのとして行政の思う通りの運営をするのが常でした。
 今回はそのようなものを設けるのではなく、県は全く新しい方式を考えているように感じます。もし我が道後湯築城跡を守る県民の会がNPO法人格を取得し、新しい公園を運営する意思があるなら全面的に委託しても良いと受け取れる発言すらありました。ここではっきりしているのは、管轄課である都市整備課は公園を作ノウハウは持っていてもそれを運営するノウハウは無いということです。これは同課自身がはっきり述べています。もう一つは、過去の経緯からして、湯築城問題に関する限り受け皿となり得るのは私どもの会しか存在しないと言うことです。
 ところが調べてみると、NPO法人化はそれほど容易なものではありません。この件については別の機会に譲りますが、早急に法人格の取得が無理であっても、例えばガイド養成を引き受けて呉れないかと言う発言もありました。
 ガイド養成はその前から運営委員会で検討しておりましたので、総会で承認を得られれば県との折衝に入れることになります。
 公園オープンまでにやらねばならないことは山ほどあります。オープンに際しイベントをやるのか、やるとすれば何をするか。展示はどのようなものにするか、展示品として何を選ぶか。公園の日常の運営はどのようにするか。これらを早急に決めていかねばなりません。
 このような周囲状況を踏まえ、運営委員会で会のあり方について何回も議論を繰り返しました。選択肢としては3つ考えられます。1番目は「守る」ことが出来たのだから運動を終結し、会を解散する。2番目は、「守る」会は一旦解散し、「活かす」活動を行う新しい会を立ち上げる。3番目は、会は名前を「守る会」から「活かす」と言う意味の名称に変更して「活かす」活動を続ける、です。
 この3つ選択肢について検討し、最終的に3番目とすることとし、「守る」運動から「活かす」活動へ踏み出すこと、そのためには「名称変更」と「活動方針の一新」を行なうこととし、これを総会に図ることと致しました。
 今回の総会はこのような状況下で準備を進め、3月31日を予定しましたが、24日に芸予地震が発生し、会場が使用不能となったため延期のやむなきに至り、漸く4月21日に開催の運びとなりました。
 総会は「経過報告」と「決算報告」を行い、続いて今総会の中心議題の審議に移りました。(総会次第は、
  http://www.shikoku.ne.jp/yuduki/kai-menu.html
をご覧下さい。)
 審議に先立ち、先ず島津代表から提案の趣旨説明がありました。その要旨を纏めておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 過去、署名運動や県議会に対し請願提出等、法的に可能な手段はすべて尽くした。その結果、一昨年末の請願は県議会で趣旨採択となった。
 現在、都市整備課は史跡に基づいて公園整備を行っており、来年4月開園の予定である。今、湯築城跡に関して一番知識、見解を持っているのは埋蔵文化財調査センターであり、都市整備課も復元するために良く勉強している。しかし同課は開園までのノウハウは持っているが、後の運営に関するノウハウはない。教委は一向に乗り出さない。そのため開園後の運営については全く白紙である。
 このような状況を踏まえて今後やるべきことは、一つは、何らかの研究機関を設けることと、全面発掘の2つを要求し続けることである。
 今一つは、国史跡指定申請が実現の方向に向かっている状況から考え、湯築城跡を守る段階は過ぎたと言えるので、今後は生かす方向を示す名前に換え、ガイドの養成講座を行うなど、公園の活用に向けた活動に転換することである。そのためにNPO法人化をも検討すべきであると考える。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 この趣旨説明の意味を、少しばかり詳しく述べてみます。
 一昨年の請願とは、湯築城跡の国史跡指定申請の促進と、未調査区域に対する発掘調査の長期計画策定を要求する2つの項目から成っています。この請願は文教委員会と建設委員会に掛けられ、一旦は継続審議となりました。年が変わり、昨年の県議会において再度審議され、今度は趣旨採択となりました。趣旨採択とは文字通り趣旨を承認するのみで、県を拘束する効力はありません。しかし、逆に考えると県が請願内容を実行しようとした場合に県議会は反対しないことを意味します。
 県議会が請願を積極的に採択しなかった点は不満ですが、県当局が史跡指定申請に動こうとしている状況下では、その動きを阻害する壁が消滅したことになります。過去何度も不採択となった歴史がひっくり返ったことを意味し、十分とは言えないまでも、愛媛の文化財行政史上画期的な出来事であったと評価できます。
 次の都市整備課と教育委員会の件りは、本来なら湯築城跡問題に教委が乗り出して当然ですが、今まで教委は全く手を出さず、都市整備課が必死になって発掘予算を手当てする等、同城址の調査続行に尽力して来たことに基づいています。10年前は記録保存が行政の通常の態度で、その状況下で遺構が破壊を免れたのは、同課の努力の賜物と言って過言ではありません。因みに同課は自課のHPに湯築城のコーナーを設けております。このHPは教委が作ったのなら当たり前の内容ですが、土木部門が良く作ったものよと感心させられる異色のHPです。
 都市整備課のHP「道後公園(湯築城跡)」:
    http://www.pref.ehime.jp/doboku/doboku2/kabetu/toshikei/dogo/index.htm
 しかし、同課の本業は道路を造ったり、公園を整備したりすることで、史跡公園を運営することではありません。同課は土木部門としては最大限の努力を続け、遺跡を今日まで守って来ましたが、この先は同課の手に余るというのは本音です。土木がやるとどんなことでも壊すと見られるのでかなわんと、以前課長がぼやいていましたが、その気持ちは判ります。従って湯築城跡の管轄課である都市整備課としては、早く教委が乗り出して欲しいと願っていると言うのも偽りの無い気持ちでしょう。
 しかし未だに教委が手を出そうとしない状況下では、出土した26万点以上の遺物もお蔵に入ったままになる惧れがあります。今までの調査で湯築城の全貌が判ったかと言うと、否、です。川岡代表の言によれば、湯築城は判らないと言うことが改めて確認されただけだそうです。
 湯築城の全貌を明らかにし、中世を本当に解明して行くには、折角発掘された遺構・遺物を始め、しっかりとした研究を進めることが不可欠です。それと250年間使われた湯築城の中心部分を含む未調査区域を十分に調べることが必要で、そのための調査計画を策定せねばなりません。発掘調査はまだ3分の1しか済んでいませんし、それも50年間使われただけの拡張部分の一部に過ぎません。残った部分と出来るなら周辺区域の調査も必要でしょう。
 「研究機関を設けることと、全面発掘の2つを要求し続けること」とはこのような意味を有します。
 これと並行して自分達が自ら行動すべきことがあるはずです。昨年某所で、日本の市民運動やボランティア活動が信用されないのは言いっぱなしだからだ、と言う言葉を聞き、非常なショックを受けました。反対の例としてドイツの反原発運動が紹介されましたが、原発を廃止したらその原発が供給していた電力を供給する代替施設が必要になる。また原発で働いていた人たちが失業しないよう、替わりの仕事を手当てしなければならない。ドイツの反原発運動はそこまで踏み込んで解決しているのだそうです。何故そこまでやるのかと質問すると、民主主義だからとの答えだったと言うことでした。
 NPOとは、活動の成果により社会の進歩・変革に寄与するのがその使命であると結んでいましたが、これを聞いたときは頭をぶん殴られた気持ちでした。私どもの会は設立当初から、「歴史的・文化的環境を守り発展させ、風格のある地域づくりを進めよう。」を目標に掲げていました。あの時期にこれを掲げたことは私どもの誇りですし、単なる反対運動ではない積もりでした。しかし、ドイツの反原発運動ほど徹底していたか、関連する問題にどこまで踏み込んでいたかと問われると、正直言って現状では答えに窮します。
 今やっと我々が掲げた目標に出発するスタートラインに立ったばかりと言う気がします。この活動は長期にわたるでしょうし、自ら掲げた理想の実現には、会は行政に要求するだけの運動体であっては駄目で、行政が態度を転換した今、行政と対等のパートナーシップを構築し、自ら行動し結果に責任を取る事業体に転換しなければなりません。
 県が取ろうとしている湯築城跡の公園の運営方式は、県当局に取って未経験であるばかりでなく、我々がこれからやらねばならぬことも、教科書も手本も無い全く未知の活動です。何がどうなるか、見通せる人は一人もいません。
 このような意味で今年の総会は大きな節目であり、正念場でした。島津代表の提案趣旨説明のあと討論に移り、例年に増して活発な意見交換が行われました。そして最後に、提示された議案を総て採択して総会を終了しました。時刻は予定の5時を越え、5時半ころでした。今回の議案が総て承認されたと言うことは、何が待ち受けるか判らぬ未知の大海原に向かって既に船出したことを意味します。
 採択された活動方針は、纏めると2つの内容に大別されます。第一は活動を「守る」から「生かす」に移行すること、第二は県に要求を続ける事項で、湯築城跡を野外博物館として整備すること、および、未調査区域の発掘調査継続です。
 湯築城跡を「生かす」活動に移行するには、会として自らの位置づけと共に今後の役割を十分に検討して行かねばなりません。また公園オープン時に何らかの役割を担うには、県との対等のパートナーシップを確立することが必要です。そのためには 名称の変更およびNPO法人化を運営委員会で検討することが、併せて承認されました。名称は直ぐにも変えたいのですが、将来の法人格取得時にそのまま使える名称とすることが望ましく、適当な名称の結論が出ていないため、委員会で検討することになりました。
 更に、総会では触れませんでしたが、会として対象を湯築城に限定せず、伊予の中世全般に広げることが必要かも知れません。この件はまだ突っ込んだ議論はなされていませんが、私はそのことを考慮しておくべきだと感じています。
 会員の中には大成さんや二神さんがいらっしゃり、それぞれ来島氏、二神氏を対象に活動していらっしゃいます。これらの方々の活動と連携することが双方にとって重要であることは言うまでもなく、それには会が扱う対象を伊予の中世全般、或いは愛媛の文化財全般に広げることが必要かも知れません。
 そのような意味もあり、名称変更を急ぎたいのですが、総会では検討事項となりました。
 この後運営委員を選任しましたが、総会で専任された委員以外の人材にも委員を委嘱できるよう、委員の追加枠を設けることが承認されました。それは、NPO法人化を推進するには現状では明らかに力量不足で、これを推進するには新たな人材の参加がどうしても必要です。従って適任者の参加が実現した場合、運営委員会の責任においてその方に随時委員を委嘱できるようにしたわけです。
 長くなりましたが道後湯築城跡を守る県民の会の置かれた状況は以上の通りです。連休明けに運営委員会が開かれる予定ですが、そこで総会の採択事項を具体化するための方策を議論されるでしょう。その経過も極力報告出来るよう努力いたします。
なお、今年の総会で採択された事項相互の関係を示す関係構造図を作りました。参考までにご覧下さい。
     参考:2001年度「道後湯築城跡を守る県民の会」総会採択事項の関係構造図
------------------------------------------------------------------------
道後湯築城跡を守る県民の会 目次

 
  inserted by FC2 system