湯築城跡を守る運動を始めてからの 経緯概要

「道後湯築城跡を守る県民の会」の活動成果
 河野氏は源平の争乱の時始めて歴史の表舞台に姿を現し、以来戦国末期 まで、中世全期間を通じて歴史の激動期には必ず登場して活躍し た。湯築城はその河野氏が通盛の時代、南北朝動乱のさなかに道後に築かれた城で、当初は南朝方勢力の強い道後平野における北朝方の軍事拠点であったと考え られる。それは 14世紀前半のことであり、その時は現在の内堀に囲まれた丘の本壇部分を利用した小規模なものであったろう。今の言葉で言うなら、南朝方勢力の強い道 後平野に築いた北朝方の橋頭堡であったと思われる。その後数十年の間に内堀や内堀土塁を造り、必要な建物を設けて、山城(丘城というべきか)として整備し たの であろう。その範囲はまだ判然としないが、南側と西側の平坦部を除いたものと考えては間違いだろうか。湯築城が河野氏の本城となったのは、南北朝合一が果 たされて 世の中が落ち着いた1400年前後と思われる。更に、築城から凡そ200年後の16世紀前半に湯築城は拡張され、恐らくは河野館と家臣団の住居と思われる 住居区 域を内部に取り込み、二重に堀を巡らす平山城となった。二重堀も平山城も中世には珍しい存在で、その走りと言えるであろう。
 湯築城跡の発掘調査は全体の凡そ1/3に当たる南側の住居跡区域が済んだだけで、ここは約50年間使われたに過ぎず、湯築城の全貌解明にはほど遠い。残 る2/3の区域、特に内堀の内側の250年間にわたって使われた区域の調査は、僅かにトレンチを入れただけで、未だに調査計画も立っていない。今までの調 査で中世城郭の常識が覆ったと聞く。それだけに残る区域の調査を一日も早く再開すべきである。
 道後湯築城跡を守る県民の会は1989年(平成元年)以来、湯築城跡の全面調査の推進と国史跡指定申請を目 指して活動して来た。爾来10余年を経て、調査の済んだ居住区には遺構に基づいて武家屋敷が復元され、去る平成14年4月12日に史跡に基づいた公園とし て開園の運 びとなった。それと平行して愛媛県は湯築城跡を国史跡に指定するよう申請し、無事承認されて同年9月20に官報告示された。
 この活動が評価され、2003年1月1日、「愛媛新聞賞」受賞の栄 に浴した。 (詳細は「湯築城」の「News&記録」 と「イベント&お知らせ」に記載。
「文化財フォーラム愛媛」の今後の活動
湯築城跡が邦史跡に指定されたことにより、保存が確定した。これは 「守る」段階からいよいよ「活かす」段階に入ったことを意味する。そこで会の名称を「活かす」活動に相応しいものとすべく、「文化財フォーラム愛媛」と改称した。
 「文化財フォーラム愛媛」は、湯築城跡未調査区域の調査計画の策定 と何 らかの研究体制が確立 されるよう、在来活動を継続すると共に、新たに県内に残る文化財を有機的に結びつけ、多くの人に理解して貰い、調和の取れたまち造りや地域振興に活かすよ う、活動を続ける。 
 なお、今日に至るまでの詳細については、道後湯築城跡を守る県民の会 の活動記録「湯築城」をご覧下さい。
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